2014年3月30日日曜日

モザンビークという国は、まったくもう・・・

だいぶ、愚痴です。やりたいことやっていて、愚痴言うのもどうなんだと自問自答しているけど、
言わせてください、モザンビーク。(今日も長いでっせ!)
あっ、最後の方に、モザンビーク島の綺麗な写真があります。
最後まで読まれた方は、その写真を見れます(笑)

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シモヨ、ナンプラ、モザンビーク島、ペンバ、国境沿いと、モザンビークの北半分を
1週間かけてまわってきたけど、
「はあ?」と思わず言っちゃうようなことが多々あり・・・苦笑いしっぱなしでした。

想像を上回る、ダメ国ぶりで、そりゃ貧しいわけだと妙に納得していました。
でも、人々は幸せなのかなあ・・・物乞いが多かった気はするんだけど。
2度と行かないであろう国のリスト入りを果たしました(笑)


【その1】警察がアホ
まず、シモヨというジンバブエとの国境沿いの町から14時間タクシーで
インド洋沿いの町ナンプラまで移動。
同じ姿勢のタクシー後ろ座席に3人大の大人は、飛行機以上にきつかった。
14時間の間に、6回、警察に止められる。
一度、「こいつ本当にあたま悪いな」と心底思ったことがあった。
まあ、聞いてくれ。

パスポートを見られて、「お前が入国したのはどこでいつなんだ?」という。
「昨日シモヨに入ったよ、ジンバブエから」というと、
「そんなスタンプはない、お前は南アフリカから2月24日に入国したんだろ」と警察官はいう。
いやいや、それ、だいぶ前のページですから(笑)
と、ページをめくろうとすると、「おれに触るな!」と激しく言われる。
その後間髪与えられず、荷物チェックを受け、パソコンのカバーさえも外し、
まったくもう、写真に撮ってやりましたよ

お前らバカかと日本語でぶつぶつつぶやきながら、口頭でおれから
「ページをめくりなさい」と言うと、ようやくモザンビークビザを発見したようで
無言でパスポートを返してきた・・・。

まあ、聞いてくれ、もうひとつあるんだ。
別の警官は、ボリビアのボランティアビザを指差しながら、
「これはモザンビークのビザではないだろ?どうやって入国したんだ?」という。
今度は、当たり前だろとつぶやき、ページをめくってあげました。

皮肉をこめて、その2回のおバカな警官には「いい仕事してますね」と
お礼を伝えてその場を去りました。


【その2】ぼったくる
だいたい、他のアフリカの国と同様、値段とサービスの質が合っていない場合が多く、
たけーなと感じることが、特にホテルであった。

モザンビーク島での出来事・・・
2014年版ロンリープラネット(という英語で書かれている有名なガイドブック)には、
150メディカシと書かれているモザンビーク島のテント場、言ってみたら「250メディカシだ」という。
いやいや発行されたの今年版だよ?たった3ヶ月で100メディカシも上がるの?おれは信じないよ。と強く出るものの、「いや物価が上がったから」との一点張り。
100メディカシといっても、300円程度なんだけど、値段の問題じゃなくて、
そういう、なんか疑わしい時点でオレ的にはアウト。

ミニバス移動がモザンビーク国内のメインの交通手段になるんだけど、これも値段がまちまち。
とってつけたように、荷物の料金を請求したり、「さっき言った値段と違うじゃん!」というと、お金を返してきたり、テキトーさが面倒くさい。
至る所で見かける日本から輸入されてきた日本車
いつか地元の車に遭遇しないかワクワクしています。
ちなみに、南部アフリカ、東部アフリカは右ハンドルだから
日本の車をそのまま使えるのです

バスが止まると一斉に物売りが寄ってきます

この、卵が貴重な蛋白源だった笑
1個15円くらいだったかな


しまいには「モザンビケーノはいつもうそつくからな」と冗談交じりにぼそっとつぶやくこと数回。
ミニバンに30人が乗るという異様な環境
そりゃ喧嘩もしょっちゅうおこるわな

そして、ミニバスは満員になるまで出発しないもんだから、
平気で2時間市内の同じ箇所をぐるぐる回ります。おれの時間を返せ!と思うのは、たぶんきっと日本人だから(笑)


【その3】シーノシーノうるさい
ほんとにシーノ(ポルトガル語で中国人)ってうるさい。


お前ら、学校午前で終わっても、午後も勉強したほうがいいぞ・・・
子どもから「ヘイ!シーノ!シーシャーマー^%$」と言われたもんだから、
まわりにいた大人に、「お前らが子どもに教えてやれよ、それって差別なんだぞ!」と
怒りをぶちまけてしまいました。
しかし、絡めるときは絡んであげます。
「おれ、シーノって言われるの嫌いなんだよね。その言葉には差別が含まれてるでしょ?
そういえば、君ザンビア人?違うでしょ、モザンビーク人でしょ。それと同じことだから。」
というと、必ずシーンとなる。
コミュニケーションは途切れるけど、シーノシーノはいったん止む。
その前述したキャンプ場では、サングラスを外した途端「・・・シーノ」と言われ、顔を背けられた。
なに、シーノじゃだめなの?
ということで、コミュニケーションをするのにうんざりして無口になってしまいました。
差別されて頭にくるのは、同等に彼らを見ているからか・・・
しょうがないなあという気持ちには到底至れません。修行が足りない。

という、旅行しててもつまらないまま終わってしまうのかモザンビーク。
次回は、そんな苦しい中でも、光がわずかにあったのでそれを紹介します。


あっ、最後に、綺麗なモザンビーク島の景色をお楽しみください。(笑)

 ストーンタウンと言われるだけあって、綺麗な、或いは汚い石がたくさん残っていました(笑)



 ポルトガルが占領していた時代のものが残されていて、
中継貿易の基地だったらしく、中国からの陶磁器や、特にインドからの調度品などが残っていました。
 なんだか風情がある墓地。
 そして、思わず撮った、学校(中高)の窓の外。ゴミだらけ。
これもまたまた風情のある建物ですが、病院だそうです。

そうだ、これから4日間、タンザニアのサファリに行ってきます。
ンゴロンゴロ国立公園と、セレンゲティ国立公園。夢にまで見たこの2大ゲームドライブ。
大金はたいて行ってきます!

2014年3月28日金曜日

ムタレでの思い出

くっそー、なんだこのモザンビークという国は!
インターネットない、大雨続きで移動が大変、ホテルがない、洗濯できない、タクシーない、バスなかなか出発しない、飛行機少ない・・・旅するのにこんなに苦労した国はない!!!
そして、本当に心から早くモザンビークを出たかったけど、
出られないという、悪夢のような1週間でした。
この旅中、最悪の1週間、そして、二度とこの国には入らないと固く心に誓いました。

あ、無事生きてます。ご心配おかけしました。
卒業式、終わってしまいましたね(笑)。
御卒業おめでとうございます。そして、進級に向けて、少し羽を伸ばしてください。

現在、25カ国目のタンザニアという国に入国。
ようやくインターネットにありつけました。(ほんとにモザンビークなかったからね、インターネット。)

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時期はずれますが、ここでは、ジンバブエのムタレでのことを書きます。

思いがけないことに、ジンバブエの職業訓練校にて、旅の話をさせてもらうことになった。
ありがたや。
一つ目は、20人くらいの教室で、ICTを学んでいる学生達に向けて。
 ジンバブエは内陸国。
20歳前後の学生であっても、国内を旅行したことがある人は多くなく、
ましてや外の国を訪れる学生は、聞いてみたら少なかった。
こうして、アメリカ大陸の話をさせてもらえるのは初めてで、でも
「外の世界を見てみて、自分達との違いに気づき、外の世界を知ろうとする心を育てる」みたいな目的で話しました。
二つ目は、美術系の学生に対して。

 とくに、マヤ文明(メキシコや中米に広がっていた文明)の文字について、詳しく話しました。

ビデオって便利ね。よかった、たくさん撮っておいて。
とくに、ペルーの若者のダンスやアルゼンチンのタンゴのビデオに食いついてきて、
学生たちもきっとダンスが好きなのでしょう、盛り上がりました。
それと、南米大陸の自然には驚いていたみたい。
なかなか素直な学生たちで、説明にもしっかりと耳を傾けていたし、
最後まで集中力を切らさず聞いてくれたことには感心しました。


学生たちに写真やビデオを通して話したあと、質問タイムでは、
「どうしたらそんな生活ができるんですか?」や「家族と離れてさみしくないんですか?」
など聞かれたけど、
ジンバブエには「貯金の文化」(2008年のハイパーインフレの説明)がないので、
旅行のためにお金を貯めるという概念が存在しないから、
妙に腑に落ちない顔をしていたな。
それと、後者の質問には「そりゃさみしいに決まってる」と答えておきました笑

そして、いよいよモザンビークへ出国しました。
モザンビーク・・・ったく、もおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!

2014年3月21日金曜日

差別は世界中にあります

しかし、現地に暮らす隊員の方々には、ご苦労もきっと多いと思います。

というところで、前回の話は終わりました。
ここから続きです。

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私もJICAの方々と一時期一緒に生活していたし、
海外に(遊びとはいえ笑)出ている人間なので、現地での苦労は多少は理解できるつもりです。

苦労の一つの中に、「自分自身が日本人として認識されない」ということがあると思います。
気にしない人は気にしないだろうけど、再度登場「チーノ問題」です。

街に出れば「(中南米であれば)チーノ、チーノ、コチーノ(豚という意味)」と皮肉な言葉を受けたり、
「ヘイ、チンチョンチャン!(なんだかよく分からない蔑称)」と去り際、車の中から等投げかけられ、
そこでおれ未熟なおれなんかは思うわけですよ。

「なんで、技術提供や支援をしに来ているのに、差別されたり、いやな言葉を受けなければならないのか・・・」

と。

それに耐えている隊員ってきっと多いと思うんです。
気にしているのっておれだけなのかなって、いろんな人に相談します、そのアジア人差別について。

最近はこんなことがありました。
ムタレの町で夕方歩いて買い物をしていると、酔っているんだかなんだかわらない数人の若者が
空手のマネをしておれの道をふさいだんです。
こんなのはおれは無視します、絡んでいいことないし。
今回は、その空手の真似事で、胸をどつかれました。
その瞬間、おれ短気だから、カチーンときて、顔を殴りました。
周りの人たちが寄ってきてなんだなんだってなるけど、
どう見ても、彼らはおれの援護はしてくれそうにありません。
おれが逃げるのみです、あとできることは。弁護も、追撃もできません。

これは彼らにとって、遊びなのか?

これは差別じゃないのか?

今まで白人に実質差別されていた黒人たちが、
スパイラルのごとく次のターゲットとしてアジア人を狙っているのか?

おれは、この話や体験を全世界に広めていきたいんです。
一回、ペルーで起きたことをフェイスブックに載せたことがあります。
でも、どうやったらみんなが知れるかとても悩んでます。

友人がこんなようなこと言っていました。
「こうしていやな言葉を投げかけられたときに、黙って我慢することも時に必要だけど、ずっと黙ったままだと、それが『あっ、いいんだ』と思われて過度にそれが進んでしまう可能性がある。」
そして、現にアジア人の家に強盗が入ることもあったそうで、
なんていうんですかね、これってまったくいじめの原理と一緒で、
あいつは、汚いから、顔が変だから、みんなと違うから、いじめてもいい
という考えにすり替わってしまうんです。
だから強盗しても、人殺しても「あいつが悪いからだ」って転嫁する社会が完成してしまうんです。

なんたる不幸。

なんたる醜い人間という生き物。




・・・と、また、熱くなってしまいました。
このこと、いろんな人に伝えたくて伝えたくて、でもどうしたらいいかわからない・・・。

どうやったら、これはなくなるんだ?

2014年3月20日木曜日

ムタレの職業訓練学校

友人隊員の学校にお邪魔しています。
私の友人は、料理隊員で、他の同期の隊員はデザインとICT(コンピュータ)で派遣されているよう。
生徒の作品を見せてもらいました

ああ、写真を縦にしてしまった。
素敵なデザインです、染色の技術を使った作品。

こちらはアフリカ的なイメージを連想させる作品でした

彼女たち、先生なんですが、ユーモアあふれる先生ばかり
これ、苦笑いですからね


旅して生活しているのが理解できないらしく、(まあそうだよな)
どうやって旅して生活できるのかを話している図

ここは、木工制作をする教室
友人のタカが、たくさん案内してくれました

ジンバブエの楽器、ムビラを即興で弾いてくれました

何人か、先生と生徒が集まって合奏してくれました
とても、不思議に心地よい音を奏でる楽器で、
なんだか寝る前にその音を聞きながら寝入りたい、そんな優しい音でした

オキナワにいたときも、JICA隊員の方々と一緒に仕事したり、生活したり、支えてもらっていたり
したけれど、私が出会うどの隊員も、志高く、自らの専門技術をその国の方々に伝えたり、
その地域社会で人材育成をしたりしています。

縁あって、JICAOBや任務中の方々とお話しする機会がたくさん今までにありました。
日本でもJICAOBの方と出会いがあり、その経験を話していただき、その後旅にでました。
海外で働く(活躍する、っておれは言いたいな)日本人を一時期追っていたことも、旅中にはありました。
個人的な目線で物を言うようになってしまうけど、
JICAの方々は皆、「現地の人々が、手に職を持てるように」だったり
「現地の人々の生活がよりよくなるように」だったり
その国の人々のために自分が技術や仕事を通してどう関わっていくかって信念もってやっています。
こういう草の根活動が、その国々と日本との関係をしっかりとつないでいるんだなと思います。
税金使って何だかわからない活動を・・・という声が一部で、日本であることも知っています。

でも・・・

それぞれの活動に
「みんな一緒に、よりよくなっていこうじゃないか!」

って、声が見えてくるんです、なんだか彼らの様子を見ていると。

きっと、ご苦労も多いことだと思います。
次に書くことは、このページと一緒の記事にしたくないことなので、
改めて書きます。

2014年3月18日火曜日

ジンバブエの首都ハラレでの滞在

更新が少し滞ってしまいました。

首都ハラレに滞在4日目。

ハラレガーデンというところに屋外プールが隣接してあって、そこに何回か泳ぎに行きました。
やっぱりプール見るとうずうずしちゃって。
でも、ぐっと体力が落ちているなあと実感。
今年の夏は、アメリカの他に、カナダで世界マスターズが開かれる予定で、
それに参加する予定なんです。
だから、どこかで自己合宿or所属しているチームで練習をしたいなあと考えているところです。

土曜日には、古くからの顔見知り、細かく言うと、その方の妹を以前から知っていて、
ジンバブエでJICA隊員としてこちらで任務にあたっている友人と会い、
土曜日には、JICAの会合に出させていただきました。
突撃訪問にもかかわらず、懇親会まで出させていただき、懐の深さを感じました。ありがたや。


この友人とは幼少期直接深く話したことがなかったが、
共通の先生である、地元浅草のポールズ英会話のフミがきっかけを作ってくれたの。
フミは、いろいろおれに影響を与えてくれる人で、
学生時代にママチャリで浅草から佐渡島まで行ったときにも誘ってくれたのはフミ。
ロンドンに勉強に連れていってくれたのもフミ。
未熟だった頃の自分を、その英語教室で働かせてくれたのもフミ。
小さいときから「勉強したくなければしなければよい」と自由でいさせてくれたのもフミ。
だから、いまこんなに「勉強したい」と強く思うようになりました。
フミ、ありがとう。

さて、最後に、ジンバブエの地元料理。


その日初めて食べたのが、マドラというイモムシを揚げたもの。
人生初くらいの代物でしたが、塩をかければ、味は・・・悪くない(笑)。
「ベッドに横になりDVDを見ながらつまむのに、ちょうどよい塩味」という表現でいきましょう。

2014年3月16日日曜日

グレートジンバブエ遺跡 in マシンゴ

グレートジンバブエ遺跡。
響きが好きで、昔からなんとなく行ってみたいところでしたが、ついに!

主に、王族が住む場所と王の妻たちが住む集合施設を訪れました。
一般市民は、この施設の周りに住んでいたようです。
多いときは25000人がこの一帯に住んでいたという。
丁寧そうに修復作業をしていた人
 とにかく、石組みの技術で建築された遺物のようで、ピラミッドの次に大きい石の遺物だと書かれていたのでワクワクしていたのですが、
それほど大きくなく、南米ペルーのインカの文化に非常に似ているものでした。
ペルーの北部にチャチャポヤス、クエラップ遺跡のほうが大きさ的には大きかったような気がしますし、圧倒されたので、今回それほどインパクトはありませんでした。


 
でも、ガイドと半日じっくり話しながらまわれたおかげで、
ジンバブエで使われているショナ語を少しだけ習えて、ショナ族の踊りを体験。
楽器もすこし触れました。改めて思ったのは、「あ、おれって音感なかったな」ってこと。
観光客が来ると、家々から「よいしょ」といったかんじで
広場に集まり、服装を着用、楽器を演奏してくれる
チップが必要

ショナ族のダンスで使われていた楽器
これはふくらはぎの部分につけていた
 これ、一緒に踊ったので、あとでビデオをYoutubeにアップしてみよう。でも、恥ずかしい。

 それはさておき、グレートジンバブエの歴史をメモしておこう。
13世紀ごろから17世紀ごろに栄えた部族による建築だと言われていて、
石切りの技術があったという。
火で熱した石を急速に水で冷やすことで割れやすくなった花崗岩をうまい具合に形作り、
壁にしたり、建築に使っていったという。
中国とも交易していたそうで、陶磁器が発掘されていました。
ここは、宗教的儀式(主に雨乞い)に使われた広場
ステージがあって、客席があって。




うしろから付いていったんだけど、
このガイドの歩く後姿がかわいい。
腕を後ろに振るときに背中よりも後ろに振るもんだから
ふわふわ浮かんでいるように歩いていた

ちなみに、上の写真の内部がこの写真
塀はだいたい10m程度

この塔と2本の木が国のシンボルにもなっているそうな。


こちらは集合施設の入り口


この王国も、例外なく、衰退の時期が来たそうですが、
人口増加と内部分裂により王国は破綻を迎えたという。

ガイドのケリーナはとても勉強意欲旺盛な24歳。
日本語を少し覚えたいというから、ショナ語と交換に少し教えました。
ここでガイド付けてよかったなあと思いました。ケリーナ、マイタバサ!!

そろそろ、ジンバブエを出国する時期が近づいてきました。
現地時間火曜日には、モザンビークに向かいます。