2014年10月31日金曜日

Vjecoヴィエコというクロアチア人と出会って…

Anchiの宿では、ドミトリーなんだけど、ヴィエコというクロアチア人と4日間一緒だった。

ヴィエコは、40代の中年だが、世界中を旅して、旅している最中に仕事して、
株もして儲け、生活をしている身。
ヴィエコの明るく壁をもたない性格のおかげで、とても話しやすく、
お互い英語圏じゃないことも話しやすさの要素に加わり、毎晩12時くらいまで二人で話をしていた。

彼はここドゥブロブニクで職を探し中ということで、いま建設現場に申し込みをしているんだけど、
今までここらへんのホテルで繁忙期に働いたり、映像関係の撮影に参加したり、ワインの収穫を手伝ったりしているので
とにかくこの街で顔が広い。
そんなヴィエコに街をたくさん案内してもらっていた。


クロアチアも、以前は旧ユーゴスラビア圏で、離れる際には戦った。
昔からクロアチアは肥沃な大地、海を持つ要衝として栄えてきたし、
それゆえ大帝国との関係もうまくやったり争ったり侵略されたりしてきた。
その跡が、街に見られる。砲台であったり、城壁であったり。


 最近のユーゴスラビアの戦乱では、この街も舞台になった。
いまはこうして観光客でにぎわっている通りも、20年前はこう↑だった。

これ、漁船を改造しただけだよね?笑

私のほうが先に街を離れることになったけど、最後の最後まで見送りしてくれたことがとても印象的だったし嬉しかった。

2014年10月29日水曜日

44カ国目クロアチア入国、でもドゥブロブニクだけ その1

セルビアのウジチェという街から乗合バスで約1日かけて、クロアチアに到着。
先に写真を載せておきます。




クロアチア滞在は、このドゥブロブニクのみ。
町並みは言うまでもなく、綺麗。オフシーズンになりかけでも、観光客でいっぱいの街。


<クロアチアの不思議な魅力的な宿Anchi(アンチ)>

しかも4日間で、風邪を治していた時期も含めてなので
そんなに長く滞在していない。この宿中心の生活になったが、
旧市街からは遠いが、何よりバスターミナルから近いのが選んだ理由。
泊まってみれば、女主人Anchiさんの人柄の良さに、
泊まっている全員がなんだかよくわからんが仲良くなれるという不思議な雰囲気をもつ宿
1泊90クーナ(1600円くらい)だが、連泊をすると80クーナになる。
このAnchiさんはみんなが楽しくやっている雰囲気が好きみたいで、
「今日はみんなでご飯作るんだ!」というと、
「じゃあこれ持って行ってみんなで分けな!」となる。
ワインだったり、食材だったりを豊富にくれるのだ。
そしてこの宿は、日本人滞在率が高い。
ここでは計5,6人の日本人旅行者に会った。

セルビアから1日かけて大移動。
ボスニアでは雪が降っていたが、隣国クロアチアではまだ暖かい。
この宿で待ち合わせしていたのが、イタリアのシチリア島パレルモで会った「まんちゃん」。
彼は、フランスで8年くらいシェフとして腕を磨いていて、
ただいま休暇中。

彼の野草や食材の話は詳しく、いつも興味深く聞かせてもらったが、
なにが合ったかって、エロ話が妙に合うのだ。
シチリア島ではわずか数時間を共にしただけ、今回は3日間、一緒に楽しむことができた。

ここドゥブロブニクは大観光地であり、大型客船が停泊する地。
えっ、こんな入江にも大型客船入ってこれるの?と少し驚くくらい。
ローマ帝国も、ベネチア共和国も、クロアチアのこの入り江には困っていたという。
なにせ海賊の住処になりやすい。
海賊はここらの入り江を拠点にして、強国の輸送船を襲っていたという。
この写真のように、海を挟んだ島々を見ていると、
海が湖にしか見えなくなってくるし、でも、この海面が下がればこの島々はつながっていることがはっきりわかるんだろうなと
想像ができるのが楽しい。

その海底を見てみたいなあ…

というわけで、泳いでみた次第であります!

控えめに小さくしておきます笑

ヌーディストビーチが近いということもあり、
私も気分が開放的になり、つい…

水温は所々でまちまちだが、22度~26度といったところかな。
そろそろ泳げなくなるかなあといったかんじの水温だった。
水の透明度は高く、海岸からはがくっと落ちていく海底。
素潜りで潜ってみればウニも見つけられるし、小さい魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
波も大きくないし、何より岩の上での日光浴は、風邪をひいている身にはそれが栄養になりえた。

2014年10月28日火曜日

セルビアに惹かれて・・・その3

友人のイヴァンは、少ない休暇の合間を縫って少し街を案内してくれた。
このときの食事のお金はすべてイヴァンがもってくれたんだけど、
ヒッチハイクをしてくれたときに「おごらせて!」っておれは彼に言ったのね、そのときは
「おう、わかった、おごられる!笑」って言ってたんだけど、
いざおれがお金を払おうとしたら
ダイスケ、だめだ、客人をもてなすのが私たちのホスピタリティだ
といって、受け取ってくれない。

そしていつも甘えるダイスケですが、このときもまた、甘えてしまうのです。
この有無を言わさぬ、全面的な驕り・・・。それはいつも心に感動を植え付けてくれます。

これが「ホスピタリティ」。
2020年に向けて私が磨かねばならない心構えだな・・・

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冷たい風を丘から送り込んでくる小川
水の透明度は非常に高い

イヴァンと別れた私は、世界的に見ても古い水力発電施設を通り、城塞に登りました。
そこで城塞への道がわからなかった私はそこらへんに座っているお姉ちゃん達に声をかけたら
なんと、
「私たちが連れて行ってあげる!」
と、手を引っ張っていってくれました。

なに・・・?ツレテイッテクレル?
ナターシャ姉妹は17歳と15歳。セルビア語を話すので、私とは意思疎通はほんの少しの英語。
あとでドイツ語を解すとわかったので、もう少し早めにわかっていればよかったんだが。
そんな彼女たちが、見ず知らずの外国人を引っ張っていってくれる。
そして、城塞まで行くと、「じゃあ、私たち遅くなるから帰るね、ちゃお」といって帰っていった。
思わず33歳のおじさん「コーヒーでも一緒に飲まないかい?」って誘うところでした。
いやしかし、何かお返しをしたいくらいのありがたい気持ちでした。

彼女たちの、なんの見返りも求めない、この無償の親切によって導かれた私は、
城塞の上で考えました。

「このウジチェの街の人の良さはどこから来るんだ・・・」

その瞬間、ぐっとセルビアという国に惹かれたのです。
セルビアという国は、最近まで戦乱の国でした。いまでは経済も危機に瀕しています。
しかし、人々は殺気立っていない・・・むしろ、気持ちの余裕すら感じる。
挨拶をすれば笑顔で返してくれる。怪訝な顔は見なかった。

むーん。魅力的な国だ。

城塞から街を見下ろす

丘に囲まれた街ウジチェ
いまは秋だが、秋でさえ空気がたまる
冬は尚更空気が淀むという。

城塞の上で「吸うかい?」と誘われた
マリファナーズ
落っこちないように気をつけてね

ところどころ紅葉が始まってました

これはセルビアのビール
自分の中では4つ星

プール、ありやした
1ヶ月ぶりくらいに泳ぐプール
ひいた風邪を退治しようとがんばって熱を発していたら
ひどくなりました。
小さい時は「泳げば治る」って治ってたんですけど、いまはあかんね

セルビアンサラダ
まあ、トマトと玉ねぎときゅうりにチーズが乗っているだけです

ハンバーグみたいなものが郷土料理の一つ
最後に、紹介したかったのがこれ!
ウジチェの友人イヴァンが、「これは食わなきゃあかん!セルビアに来た意味なし!」と豪語していたものですが、
コンプレート・レピーニャ。
やわらかいパン生地に、動物性の油をたらふく敷きます。
その後、溶いた卵をこのパンに染みこませ、焼きます。
これがセルビアの朝食。
ここで欠かせないのが、ヨーグルトで、ヨーグルトと一緒に食べないと、
重くてお腹がもたれちゃう。しかし、味は病みつきになるほどの濃い味。

2014年10月26日日曜日

セルビアに惹かれて・・・その2

モクラゴラのあと、ウジチェまでは車で1時間の距離。
のんびり構えるのみ。

バスがないので、ヒッチハイク。
1台目は、50代のおじさん、ボスニア語を話すので、おれはぜんぜんわからなかった。
ウジチェの途中までのせてくれて後、優しい手で握手をしてくれた。
大きな温かい手だったのが印象的。

その場所からウジチェまでさらにヒッチ。
ここ東欧では、ヒッチハイクは一つの手段。

イヴァンという40代の青年(?)が止まってくれた。
このイヴァンがなんと1日中付き合ってくれたのだが、
「おれもこういう経験があるからしたくなる」と。最初の一言目がこれ。ぐっときた。
彼は、セルビア出身だけど、獣医で、セルビアの経済悪化を感じ、中東のドバイに引越し職を見つける。
いまは休暇で地元に戻ってきているという。

彼の話が本当に興味深かった。
内戦後、経済が悪化し続けているということ、その経済悪化に伴い中国人が退去しているという
世界でも類を見ないパターンの国だなあと思った。
また、彼は日本についてよく知っており、武士道の話から責任の話、責任感があるから
街もきれいなんだよなあと淡々と語っていた。
セルビアの残念なところは、ゴミが散乱しているということだという。
ゴミが多かったり、破損が目だったりすると、心の荒廃も目につくようになる。
日本がその点うまくいっているのは、一人ひとりが責任感をもっているからじゃない?と
おお、興味深い視点で話してくれるなあと感心した。

イヴァンは、安いホステルまで紹介してくれ、しばらくしてから再度会うことに。

彼の友達の店に連れて行ってくれたのだが、その前に「Komplet Lepinjaコンプレート・レピーニャ」
というものと「ヨーグルト」を買ってくれた。これの食べ方を教えてやる!ということで。
この話はまた次回にしよう。このコンプレート・レピーニャにぐっと惹かれて毎日食べることになりました(笑)

さて、話の続き。
彼はこの街ウジチェの魅力について語ってくれ、20分も歩けば、大自然が広がっていること。
自然が大好きな彼は小さい頃から釣りをしていて、将来も、嫁さんと子どもをつくったらその大自然の中で住みたいんだよなあと言っていた。ドバイという今の環境とはまったく反対の環境だ。

おれの旅の話もよく聞いてくれた。
彼はしっかりと自分の考えも主張するし、疑問があればここぞとばかりに聞いてくる。

「なぜ、日本はイルカ漁とクジラ漁をやめない?」

これは正直よく聞かれる質問である。
個人的な見解は伝えたが、みなさんはどう思う?国際的にはかなり批判されています。

若者についても話してくれた。
最近のセルビアの若者は、年配に対して配慮が欠けているという。
どの世代でも言われてきたことなのだろうけど、日本でも同じ・・・かな?
ウジチェの街に流れる小川

時間がない中でここまで親切に付き合ってくれる人はなかなかいない。
最後に「君の旅を応援してる」ということを言ってくれて別れた。

2014年10月24日金曜日

セルビアに惹かれて…その1

いまボスニアにいたときに体調を崩して以来、1週間風邪を引いてます。
シチリアで会った、友人まんちゃんとクロアチアのドゥブロブニクにいて、少し休んでます。
ボスニア、サラエボと旅してて、急に寒波が襲ってきました。
1日中みぞれが降っていた日もあったので、身体が対応せずに、それにやられたのかな。

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モクラ・ゴラという村に滞在したあと、セルビアのウジチェという街にいきました。
ボスニアとの国境近くに、モクラゴラという村があり、そこは『ライフイズミラクル』という映画で
私は知っているのだけど、エミール・クストリッツァ監督がその映画の舞台とした村なのです。

1990年代のバルカン半島での戦乱を、監督らしく(?)おもしろおかしく自由に、愛においては美しく、描いていて、この映画を見た時に衝撃を受けた覚えがあります。もう8年くらい前になるでしょうか。



キリル文字が入ってくると、さっぱり・・・
理解するのもあきらめてます。

その山間部を走る電車があり、電車好きには有名らしい
 この地方独特の建築様式みたいで、雪にも耐えられるようにかな、屋根の形が特徴的。
すべてを木で作っているみたい。
風の音しかしない瞬間があり、
日本の風景となにか似たような感覚をえました。

  その映画の舞台になったセットが残ってるというの、そこに入ってみました。
夕方に行ったらタダで入れてくれましたが、その監督の映画などは上映されていませんでした。




この風景も日本のそれに似ていて
ただそこにいるだけなのに、ほっこりできました。
そんなことをしているから風邪をひいたのかな。
「テントで泊まれないかな?」なんて地元の人に聞いてたんだけど、気温が10度を切ってきて、
明け方は5度近くまで下がってきました。
そろそろ着るものも、半袖では間に合わない時期になってきたみたい。

このモクラ・グラからサラエボのウジチェまでヒッチハイクできました。
そのあとの様子は次回に。

2014年10月22日水曜日

滞在期間は4日だったが、興味深かったボスニア・ヘルツェゴビナ <ヴィシェグラード>

夢枕獏さんの著した『シナン』という小説を読んで以来、
この「ミマール・シナン」という人物像に惹かれて、彼の作った建造物を巡りたくなりました。
その最たるものが、トルコのエディルネという場所にあるモスクですが、
これを見るのにあとひと月…
もーがまんができなくなってちょっといろいろなものが出てきてしまってます(笑)

ここボスニアは以前オスマン朝トルコの領地に組み込まれていたことがあり
そのときにシナンが、ここヴィシェグラードに橋を建造したのだが、
第一次大戦でも第二次大戦でも破壊され修復されたのが今の姿だそうです。
彼の技術の高さと美しさで有名な橋

この橋が壊された理由は、民族対立が原因だと知りました。
第一次大戦の勃発、そして最近のユーゴスラビア解体後も、
民族対立が原因での殺し合いがありました。
民族の独自性(優位性?)を保つ・示すのに、いがみ合ってまで、殺し合ってまでする必要があるのか?」とか思うのはきっと、平和で有り続けた最近の日本に生きている若者だからだろうな…。
なかなかそこまで怒り合う状態になるのは…
と思って歩いていた矢先に、きたきた~、つっかかってきましたよ~(笑)

目の前から、がたいのいい兄ちゃんが歩いてきて「へいへい、キーノ!」(ボスニア・セルビア語で中国人の意味)と大声で絡んできます。
(あ~めんどくせー!)と思いながらも、受け答えしたのがいけない。
大輔:「ちげーよ、日本人だよ!」
やから:「ノーノー、キーノ!」
大輔:「だからちげーよ、日本人だって。お前はロシア人か?違うだろ、それと同じことだよ。」
やから「ノーノー、キーノ(だよ、お前は)!」(と、おれの胸を指さしながら)
大輔「ちげーって、ヤーパンだって本人が言ってんだろ!」
やから「ノーノー、キーノーーーーー!!!
・・・
・・・このやりとりが5,6回続きました。
周りで見ている人が止めようと一言二言投げかけてくれますが、こいつは引きません。
最終的に二人共笑いながらですが、汚い言葉の投げ合いで去って行きました(笑)

さすがにその後はぐったりしました。
まわりにいた人たちは「あいつ頭おかしいんだよきっと」と声をかけてくれたのが、
おれには救いでした。でも、今となってはぜんぜん気になってません。
これでもかっ!ってくらい、最近「日本人としてのおれ」が強調されています、自分の中で。

それはさておき、
この橋は、有名な物語の舞台になっていて、
その小説に興味があって訪れている人のほうが多かったです。
土産物屋をのぞいたときにその人の肖像が描かれたお土産が多かったからです。
ちなみにシナンを描いたお土産を探していたら、一つだけあったのでそれを迷わず購入!
偏屈なこだわりです(笑)。

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なかなかこの国では、民族の話を出せません。
「君は何人?」って聞けなくて、街で住み分けもされているくらいだから、
聞いたら憤る人もいるのかなと思い、つっこめてないんです。
お土産屋さん(いい話ができてたのに写真をまた撮り忘れた…)との話で、
「さっき、つっかかってきたやつがいてむかついてさ…」ってなんだかんだ話したくなって、ぶわーって話し始めたわけ。
英語を話せる、解せる人が少なくて、話したいんだけど、
深い話ができなくて、ちょうどよかったんです。
そしたらその売り子さんが「うん、わかるな、私ボスニア人だけど、セルビア人って言われたらなんか違和感があるもん。それを言われ続けたら怒るのもわかるよ。」と言われ、
「おお、わかってくれる人がいたか!」と嬉しくなった。

ボスニア・ヘルツェゴビナの旅はこれでおしまい。
最後にセルビアへの国境に抜けるバスの中で出会った二人。


「どこから来たの?」と最初に口火を切ってくれたカタリナ。
それと、情報技術という分野を学んでるデジャン。
「福島のニュースをテレビで見た」としきりにそのときの様子をおれに話してくれたカタリナはあまり英語が話せない。
デジャンくんが訳してくれたのですが、彼女はその映像を見た時に、鳥肌が立ったと言ってました。
そういう、人が犠牲になる瞬間を知っている彼女(この年代は間違いなく戦乱を経験している)だからなのか、その「鳥肌が立った」と言った時の悲しい表情は印象的だった。

国を抜ける最後に、こういう瞬間的ではあるけど、
印象的な出会いがあると、嬉しい気持ちで一日を終えられる。

2014年10月20日月曜日

滞在期間は4日だったが、興味深かったボスニア・ヘルツェゴビナ<首都サラエボ>

空路でチュニジア→フランスのパリ→イタリアのローマ→クロアチアのドゥブロブニクに。
パリで一旦入国、観光しようと思っていた矢先、飛行機の時間が変更になり、
ちっとも空港から出られず。
なぜこのルートをとったかというと、チュニジアから東欧に飛ぶ安いチケットがなかったんです。
ですので、一旦西ヨーロッパを経由してということにしました。

そしてクロアチアのドゥブロブニクに一泊後、その地の観光は友人との合流後にするとして、
それまで周辺の国を周ることにしました。

まずは、ボスニア・ヘルツェゴビナ
恥ずかしい話ですが、東欧(と括って書いてますが、もしかしたら正しくない呼び名かもしれない?)の国々はどんな国々で構成されていて、
どこに位置しているのかがあまり分かっていませんでした。
ですから、自分の中で理解したいというのがここらへんを歩く第一の理由。

そして、自分の記憶に新しい事件の中で印象的な、ユーゴスラビアの解体。
その後起きた各地の民族(?)紛争、大量の犠牲者…
その舞台となった街って、どんな様子なのって知りたくて。

泊まったのはユースホステル(8ユーロ)だったんだけど、
近くの丘の上からは、集団埋葬された墓場。


ここには、サラエボオリンピックの補助会場があったそうですが、
その後解体され墓場になったという。
墓の一つ一つを見てみると、亡くなった年が1992年から1996年ぐらいに集中している。
ルワンダで見たときもぞくっとしたけど、(ちなみにルワンダは1994年)、
大量の墓石に、同じ年が刻まれている場面を見ると、やはりぞくっとする。
街の建物の中には、銃痕が残っているものも少なくない。


そして、あれを見忘れた、サラエボのバラと言われている、爆撃の跡に埋め込まれた蝋。

そしてサラエボオリンピック会場も見るべきだったかなとちょっと後悔してる。

1914年には、第一次大戦勃発のきっかけにもなったサラエボ事件がまさにこの街で起きている。
日本人には(?)どうしても第二次大戦よりは、関係が薄い戦争であるからか、
博物館があって助かった…、たった1フロアだけの博物館だけど。
この橋の向こうにある角の建物の前で、ハプスブルグの皇太子が
一青年に撃たれたのだそうです

当時使われた凶器

街の中心に川が流れるサラエボ市内


ボスニアコーヒーってのもあって、トルココーヒーと似てるんだけど、粉が最後に残るのね、口に。
それが苦手だけど、味はまあ普通の濃いコーヒーだった。
それと、ブレックという食べ物にはまった!
ナン生地の柔らかいパンに、小さいハンバーグと細切れ玉ねぎが入ってる。
これ食べると、とにかく「あ~、夕飯いらね」となるくらい、重い。
でも美味しいから病みつきになる。
1マルク、だいたい70円

店によるけど、だいたい半分のものは3.5~4マルクで食べられた
日本円だと250円くらい