ラベル ボスニア・ヘルツェゴビナ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ボスニア・ヘルツェゴビナ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年10月22日水曜日

滞在期間は4日だったが、興味深かったボスニア・ヘルツェゴビナ <ヴィシェグラード>

夢枕獏さんの著した『シナン』という小説を読んで以来、
この「ミマール・シナン」という人物像に惹かれて、彼の作った建造物を巡りたくなりました。
その最たるものが、トルコのエディルネという場所にあるモスクですが、
これを見るのにあとひと月…
もーがまんができなくなってちょっといろいろなものが出てきてしまってます(笑)

ここボスニアは以前オスマン朝トルコの領地に組み込まれていたことがあり
そのときにシナンが、ここヴィシェグラードに橋を建造したのだが、
第一次大戦でも第二次大戦でも破壊され修復されたのが今の姿だそうです。
彼の技術の高さと美しさで有名な橋

この橋が壊された理由は、民族対立が原因だと知りました。
第一次大戦の勃発、そして最近のユーゴスラビア解体後も、
民族対立が原因での殺し合いがありました。
「民族の独自性(優位性?)を保つ・示すのに、いがみ合ってまで、殺し合ってまでする必要があるのか?」とか思うのはきっと、平和で有り続けた最近の日本に生きている若者だからだろうな…。
なかなかそこまで怒り合う状態になるのは…
と思って歩いていた矢先に、きたきた~、つっかかってきましたよ~(笑)

目の前から、がたいのいい兄ちゃんが歩いてきて「へいへい、キーノ!」(ボスニア・セルビア語で中国人の意味)と大声で絡んできます。
(あ~めんどくせー!)と思いながらも、受け答えしたのがいけない。
大輔:「ちげーよ、日本人だよ!」
やから:「ノーノー、キーノ!」
大輔:「だからちげーよ、日本人だって。お前はロシア人か?違うだろ、それと同じことだよ。」
やから「ノーノー、キーノ(だよ、お前は)!」(と、おれの胸を指さしながら)
大輔「ちげーって、ヤーパンだって本人が言ってんだろ!」
やから「ノーノー、キーノーーーーー!!!」
・・・
・・・このやりとりが5,6回続きました。
周りで見ている人が止めようと一言二言投げかけてくれますが、こいつは引きません。
最終的に二人共笑いながらですが、汚い言葉の投げ合いで去って行きました(笑)

さすがにその後はぐったりしました。
まわりにいた人たちは「あいつ頭おかしいんだよきっと」と声をかけてくれたのが、
おれには救いでした。でも、今となってはぜんぜん気になってません。
これでもかっ!ってくらい、最近「日本人としてのおれ」が強調されています、自分の中で。

それはさておき、
この橋は、有名な物語の舞台になっていて、
その小説に興味があって訪れている人のほうが多かったです。
土産物屋をのぞいたときにその人の肖像が描かれたお土産が多かったからです。
ちなみにシナンを描いたお土産を探していたら、一つだけあったのでそれを迷わず購入!
偏屈なこだわりです(笑)。

>>>>>>>>>>>>>>>>

なかなかこの国では、民族の話を出せません。
「君は何人?」って聞けなくて、街で住み分けもされているくらいだから、
聞いたら憤る人もいるのかなと思い、つっこめてないんです。
お土産屋さん(いい話ができてたのに写真をまた撮り忘れた…)との話で、
「さっき、つっかかってきたやつがいてむかついてさ…」ってなんだかんだ話したくなって、ぶわーって話し始めたわけ。
英語を話せる、解せる人が少なくて、話したいんだけど、
深い話ができなくて、ちょうどよかったんです。
そしたらその売り子さんが「うん、わかるな、私ボスニア人だけど、セルビア人って言われたらなんか違和感があるもん。それを言われ続けたら怒るのもわかるよ。」と言われ、
「おお、わかってくれる人がいたか!」と嬉しくなった。

ボスニア・ヘルツェゴビナの旅はこれでおしまい。
最後にセルビアへの国境に抜けるバスの中で出会った二人。


「どこから来たの?」と最初に口火を切ってくれたカタリナ。
それと、情報技術という分野を学んでるデジャン。
「福島のニュースをテレビで見た」としきりにそのときの様子をおれに話してくれたカタリナはあまり英語が話せない。
デジャンくんが訳してくれたのですが、彼女はその映像を見た時に、鳥肌が立ったと言ってました。
そういう、人が犠牲になる瞬間を知っている彼女(この年代は間違いなく戦乱を経験している)だからなのか、その「鳥肌が立った」と言った時の悲しい表情は印象的だった。

国を抜ける最後に、こういう瞬間的ではあるけど、
印象的な出会いがあると、嬉しい気持ちで一日を終えられる。

2014年10月20日月曜日

滞在期間は4日だったが、興味深かったボスニア・ヘルツェゴビナ<首都サラエボ>

空路でチュニジア→フランスのパリ→イタリアのローマ→クロアチアのドゥブロブニクに。
パリで一旦入国、観光しようと思っていた矢先、飛行機の時間が変更になり、
ちっとも空港から出られず。
なぜこのルートをとったかというと、チュニジアから東欧に飛ぶ安いチケットがなかったんです。
ですので、一旦西ヨーロッパを経由してということにしました。

そしてクロアチアのドゥブロブニクに一泊後、その地の観光は友人との合流後にするとして、
それまで周辺の国を周ることにしました。

まずは、ボスニア・ヘルツェゴビナ。
恥ずかしい話ですが、東欧(と括って書いてますが、もしかしたら正しくない呼び名かもしれない?)の国々はどんな国々で構成されていて、
どこに位置しているのかがあまり分かっていませんでした。
ですから、自分の中で理解したいというのがここらへんを歩く第一の理由。

そして、自分の記憶に新しい事件の中で印象的な、ユーゴスラビアの解体。
その後起きた各地の民族(?)紛争、大量の犠牲者…
その舞台となった街って、どんな様子なのって知りたくて。

泊まったのはユースホステル(8ユーロ)だったんだけど、
近くの丘の上からは、集団埋葬された墓場。


ここには、サラエボオリンピックの補助会場があったそうですが、
その後解体され墓場になったという。
墓の一つ一つを見てみると、亡くなった年が1992年から1996年ぐらいに集中している。
ルワンダで見たときもぞくっとしたけど、(ちなみにルワンダは1994年)、
大量の墓石に、同じ年が刻まれている場面を見ると、やはりぞくっとする。
街の建物の中には、銃痕が残っているものも少なくない。


そして、あれを見忘れた、サラエボのバラと言われている、爆撃の跡に埋め込まれた蝋。

そしてサラエボオリンピック会場も見るべきだったかなとちょっと後悔してる。

1914年には、第一次大戦勃発のきっかけにもなったサラエボ事件がまさにこの街で起きている。
日本人には(?)どうしても第二次大戦よりは、関係が薄い戦争であるからか、
博物館があって助かった…、たった1フロアだけの博物館だけど。
この橋の向こうにある角の建物の前で、ハプスブルグの皇太子が
一青年に撃たれたのだそうです

当時使われた凶器

街の中心に川が流れるサラエボ市内


ボスニアコーヒーってのもあって、トルココーヒーと似てるんだけど、粉が最後に残るのね、口に。
それが苦手だけど、味はまあ普通の濃いコーヒーだった。
それと、ブレックという食べ物にはまった!
ナン生地の柔らかいパンに、小さいハンバーグと細切れ玉ねぎが入ってる。
これ食べると、とにかく「あ~、夕飯いらね」となるくらい、重い。
でも美味しいから病みつきになる。
1マルク、だいたい70円

店によるけど、だいたい半分のものは3.5~4マルクで食べられた
日本円だと250円くらい