2014年2月28日金曜日

南アフリカ、ロベン島

ネルソン・マンデラ元大統領が亡くなったのは、昨年のこと。
全世界が悲しんだ出来事だったのかなと思います。

私は、「マンデラの名もなき看守」という映画を通して、マンデラ大統領がしてきたこと等を知ったけど、1994年に、アパルトヘイトを撤廃した(選挙権を全人種が持てるという法律が成立)という出来事は、子どもの頃のことながらも覚えていました。

いまこうしてケープタウンを歩いているけど、
黒人も白人も、有色人種も普通に歩いている。
でも、20年前までは、お互いに差別をしていて、教育を均等に受ける機会を設けていなかったり、
住む場所が定められていて自由に歩けなかったり、仕事の賃金が違ったり、そういった差別を黒人や有色人種が受けていました。
特に黒人に対してひどかったようです。

ケープタウンは港町なので、とても魚のにおいがしました。
そして、レストランの近くを通ると、魚を焼く香ばしいにおいがしました
ロベン島のツアーは、250ランド。だいたい日本円では、2300円。
行き帰りは、船で移動です。ケープタウンの町から7kmの距離に、ロベン島があります。


 マンデラ氏だけじゃなく、ここには何千人という人が牢獄に入れられていて、
投獄理由は主に、政治に対する批判だったそうです。
 その「マンデラの名もなき看守」という映画では、あまりよく覚えていないのだけど、たぶんここのことを描いていたと思われます。ちなみに上の写真は、犬小屋の写真。

 向こう側に見えるのが、ケープタウンの町。ここから7kmの距離。過去に泳いで逃げようと
試みた人が2人いたが、一人は成功、もう一人は失敗し死亡したそうです。


これが囚人とされていた人たちのベッド。それを見た最初の感想。
「んっ?これは、いま泊まっているホステルのベッドよりもいいのでは?」

トルコ人の友達と一緒に周っていたのですが、 誰かと話しながらツアーできるっていいなと改めて思いました。

 ここをガイドしてくれた彼は、7年間このロベン島で投獄生活をしていたそうです。
その最初の時期に、マンデラ氏と共にいたそうです。
そして彼の投獄理由は、当時の教育政策に対する批判だそうです。
教育予算が白人に対してと、黒人に対しては大きく違いがあったみたい。
 ここがマンデラ氏が投獄されていた牢屋。ちなみに投獄期間は18年間だったそうです。

 差別はなくならない、誰にでも心に持ちうるものというのが、私の持論ですが、
少なくとも、今のケープタウンの様子を見ていると、表面的にはないような少ない気がします。

特に、アパルトヘイトを経験している人たちの振る舞いを見ていると、
心が温まるような接し方をする人がほとんど。つまり黒人達の私有色人種に対する接し方です。
勝手な詮索ですが、差別をされていた人は差別される辛さ苦しみを知っています。
きっと「もう二度と!」という思いをもっている人もいるのだと思います。

しかし、夜街を歩いていると、若い黒人に「ヘイ!チャイニーズ!ヘイヘイヘイ!」と大声で迫ってきます。
10歳くらいの子どもにも「チャイナ!金くれ!」とせがまれます。
南米と違うのは、彼らは「しつこい」ということ。断ってもついて来る、いつまでも。
だから、もう無視しています。

若い世代に、自分達の経験を受け継いでいくという「教育」という面では、難しさが残っているように感じます。

今日は最後に、ライオンズヘッドの写真を。
右に見える丘がライオンズヘッドと呼ばれるものですが、本当にライオンが横たわってる様子に見えます。

今日も充実した一日でした。
今日は長く書いてしまいました、差別ネタになると、どうしても熱が入ってしまいます。
読んでくださり、ありがとうございました。

2014年2月27日木曜日

サンパウロでの最後の日の写真を

 こうやって、最後の晩に、送別会を開いてくれました。



 セレソンのユニフォームを、名前入りで・・・涙が出てしまいました。
 なんと、父にも!!!
 2人揃って写真なんて今まであまり撮ったことがなかった(33年間!)けど、
おかげさまで、ブラジルでたくさん撮ることができました。
そして、同い年のいとこからは、ブラジルの国旗のスイムキャップを・・・。
しつこいけど、涙がでちゃいました(笑)


ええい、いつまでも引きずってないで、いい加減アフリカの話を始めないと!!!
南米に引き続き、ワクワクするような土地です、アフリカ。
サンパウロよりも暑く、日本の夏を感じさせるような蒸し暑さのケープタウン。
こんだけ暑いと、観光する気が失せてしまって、行くつもりのところがどんどんと削られていく・・・
明日はプールに行ってきます。
なんと、5ランド(50円!!!!!)で、1時間泳げるプールがいたるところにあるようで、
うれしょんしちゃうくらい、しっぽ振ってます。
 トルコの人と友達になったんだけど、たまたまガラタサライとチェルシーの試合があって
バーに行ってました。トルコ系料理のバーなもんで、水タバコがありました。シシャっていうのね、トルコ語で。

 これが有名なテーブルマウンテン。歩いて行きたかったけど、この暑さのため、気持ちよく断念。
まあ、上のほうは涼しそうだけどさ。

アフリカっぽいでしょ(笑)、絵うまいんだよ、どの売り子も。

昨日は、ロベン島に行きたくて行きました。そこでは、
「ああ、TIAだなあ」ということもありました。
TIA・・・This Is Africa!!!

2014年2月26日水曜日

サンパウロでの思い出、そしてアフリカへ

サンパウロを22日の夜に出て、25日の昼、南アフリカのケープタウンに着きました。
約2日半かかったわけですが、そのうち12時間はエチオピアに滞在していました。
12時間以上の滞在だとエチオピア航空は、ホテルを用意してくれるみたいで、
丁寧にホテルまでの送迎付き、しかし、入国ビザの発行に4時間かかり、睡眠時間は4時間という、だったら空港泊でもよかったんじゃないか的な滞在でした。

南アフリカのヨハネスブルクという街に飛行機は着いたのですが、ここは回避しました。
安全上あまり良いうわさは聞かないので、パスし、一気に南端のケープタウンに移動。
ここでしばらく過ごすことになりました。

サンパウロ、最後の夜は、家族のみんなが送別会で集まってくださり、
やっぱり涙をこらえることができなくて、別れがとても辛いものになってしまった・・・。
深夜の空港までみんな車で来てくれて、最後の最後まで見送ってくれた。
あの瞬間、きびすを返したくなりました、本当に。

いまこうして離れてしまって、そう簡単に会うことができなくなってしまって、
少し抜け殻のようになっています。
飛行機の中でも
「あ、冷蔵庫の中のアサイーのシャーベット、食べきってない」とか
「スペイン語とポルトガル語の辞書を買っておくべきだったかなあ、もう買えないなあ」とか
なんだかそんなことも考えていました。


また、自分のペースで旅をしていかないとね。
元気だしていくぞ!

2014年2月23日日曜日

ただいまから南米を発ちます

南米を出ます。そして、アフリカの地へ。

いままで、こちらブラジルの家族にお世話になり、
いくら感謝しても感謝しきれません。


詳しくは後日載せます。
離れがたき南米…。
でも、また帰ってきます、必ず。

2014年2月21日金曜日

ブラジルの食、個人的に好きなもの、興味深いものを集めてみました

 まずは、ブラジルの代表的な料理、フェイジョアーダで使う豆。
豆をフェイジョーンといいますが、いろいろな種類があって、
真ん中にある黒いのは、よくリオの人(カリオカ)が好んで食べる豆、
薄い色はパウリスタ(サンパウロの人)が好んで食べる豆、というようです。
 ブラジルの果物は本当に豊富。今まで中南米まわってきたけど、これだけ豊富な国はないです。
バナナにもいろいろ種類がありますが、この小さいバナナは、バナナオーロという種類。
甘いバナナです。
 これは、「悪魔の実」ね(笑)。
右はアテモヤ(チリモヤと同じ種類の果物)、左はピタージャ(っておれは呼んでるけど、ポルトガル語ではわからない…)。
 これは、アサイーの栄養ドリンク。400円くらいしました。
 そしてこれがアサイー。覚悟を決めてかからないと、食べきれない。700ccくらいあったな。
栄養の補給にいいみたい。ブラジルを離れると、もうこのアサイーが食べられないと思うと、
腹を壊してでもいいから、大量に食べたくなってくる。
ああ、アサイー、こんなに気に入るとは思わなかった。
フェイラ(市場)に出かけたときのバタタ(いも類)の様子。
5,6種類あったので、ついつい写真を撮ってしまった・・・お腹を出して売っているおじさんと共に。

ブラジルでの生活、残すところあと3日・・・。
本当に離れがたい。飛行機のチケットを変更しようかと相談したくらいに、離れることが辛い。

2014年2月20日木曜日

今日は父とサンパウロ観光

親戚の方々に昨日に引き続き、今日もサンパウロの街を一緒に歩いてもらいました。
独立記念広場とリベルダージ(東洋人街)、そして移民資料館。
夜は夜で、私は若者の親戚と外に出かけたのですが、
父は、同年代の親戚とお食事、晩酌。話に華が咲いていたようです。
独立記念塔にて

リベルダージも4回くらい来ているけど、
毎回楽しく感じる場所

信号が鳥居、かわいい
 

私はと言うと、上にも書きましたが、同年代のいとこが多い(いつも一緒に行動しているのは15人くらい)ので、毎日どこかに連れていってもらってます。
この1年で、サンパウロのいとこたちは、結婚したり、子どもをもうけたり、出産して子育てをしたり、
留学をしたり、大きな変化がありました。
そうした家族の変化を見ていると、
また「みんなと一緒に、ここサンパウロで暮らしたい」という気持ちが湧いてきます。


 1年ぶりの日曜チャリ散歩。「1年前のチャリが忘れられないんだよ。」というと、
「じゃあ今回も行こう!」ってことで。
 先週の日曜日には、みんなで集まって、シュラスコ。
ふと、考えてしまいました。
来週の今頃はもう南アフリカにいます。

いままでこんなに温かいお湯に浸かっていて、果たして旅に戻れるのだろうか。。。

2014年2月18日火曜日

父、サンパウロに到着!

先週は、こちらサンパウロでブラジルの家族達と過ごした1週間でした。
今週は、父が、日本から到着し、1週間を共に過ごします。
ブラジルのみんなにたいへんお世話になります。

 ドバイ経由で合計30時間。長旅おつかれさま。本当によく来てくれました。
たぶん、荷物がなかなか出てこなかったんだと思う。
出口で1時間近く待っていたんだけど、早めに出てくる人たちの荷物のタグを見て、
あっ、エミレーツそろそろなんだけどなあと思っていたり、
救急隊の人が3人、出口から逆行して入っていったので、
わけもわからずなんだかそわそわしたり、
首をなが~~~くして待っていたんだ。

ようやく出てきたと思い、父の顔を見ると、不安そうな顔でおれを探していた。
見つけてすぐに手を振り、抱き合いました。

おれの父です。

2014年2月15日土曜日

ラテン音楽の紹介

最近・・・
・日本に到着する様子(バックパックを背負って浅草に立っている)
・どこかから旅立つときの様子(つまれ別れ、出発の場面)

という夢を見ました。
友人や親戚の家に泊まっているからか、起きたときのなんだかさみしい感じを感じて起きるのです。

サンパウロの親戚家族の家にお邪魔し、早1週間が経とうとしていて、
昨年会えた親戚にほとんど会えたし、昨年よりもたくさん話せているので、とても嬉しいです。
昨日は、若い者同士夜遅くまで楽しみました。



今日は気楽に、「ラテンアメリカの音楽」を紹介してみようかな。
スペイン語圏(最近行った国々、アルゼンチンやチリ)で聞いた曲で、
おれが好きな曲(笑)を独断で紹介。
個人的な趣味に付き合ってもらおかな(笑)

まずは、ロメオ・サントス。「Propuesta indicente」
「丁寧じゃない反抗心(?)」みたいな、たぶん、より適切な訳があるかと思いますが、
動画を見ると、そんなかんじが伝わると思うかな・・・
ビデオの舞台が、アルゼンチンのブエノスアイレスなもんで、個人的に好き。

つぎに、マークアンソニー。vivir mi vida
「自分の人生を生きる」というタイトル。
この2つが人気で、とくにマークアンソニーのこの歌は、長い間かかっている歌。

ラテン音楽といっても、この2人はアメリカ出身。両親またはそのどちらかが、スペイン語圏の出身。
中南米、音楽の面でも、アメリカの影響力がとても強いようです。

2014年2月13日木曜日

私がブラジルを好きな理由

今回は写真なしです。
ちょっと思っていることを。

いままでこの旅で、18ヵ国まわってきました。
グアテマラやアルゼンチン、ボリビアのように、長く滞在したところもあれば、3日くらいで出た国もあります。
南米最後の土地がブラジルとなったわけですが、
とても好きなんです。

理由は、
差別が少ないから。

実際、心の内はわかりませんよ。
でも、言葉や態度に少なくとも出さない。
一人の人間として、尊重してくれる国です。
おおらかな国民性もあります。
そして何よりいろんな人種が移民して作られた国という背景もあります。
優しいんです。

中南米では、見た目で差別されていました。
目が細いから、背が低いから、
そういった理由で笑われたことが何度あったか。
中にはもちろんいい人もいるし、友達になれた人もたくさんいます。
話せば、大抵仲良くなれるんですけど、
ただ、概して、見た目で差別されていました。

ちょっと怖い話。
この国は、強盗が多いと聞きます。
親戚と話していて、
いままでで五回車を盗まれたとか、
車を車庫にしまおうと車庫の鍵を開けている最中に、もう座席に強盗が座ってたとか、
サンパウロでは1日に400台の車が盗まれてるとか。

みんなそれでも、
「命あるからいいよね」と言ってます。

強盗がとても多いのはやっぱりいやだけど、
それでも、「人」ということを考えると、ブラジル、素敵な国なんです。

最後に、ショックな話をひとつ。

友達の、日本大好きなブラジル人と、彼が日本に行ったときのことを話していたんです。(その彼は日本語ペラペラ、それだけで尊敬に値する)
「ぼくがいやだなって思ったのはね、電車で座ろうとしたときにね、両側の席の人が立ってどこかに行っちゃったんだよね。たくさん人がいるのに、ぼくのまわりには座らないで、立ってるの。あれは悲しかったな。」
だって。

経済は先進国だけど、対外国人に対しての人権はまだまだ後進国だと、日本に住んでて思いました。

2014年2月12日水曜日

ニテロイからサン・ジョゼ・ドス・カンポスへ

いま、南米最後の土地となるサンパウロに滞在中。
23日まで約2週間、親戚の伊藤家にお世話になります。
日本での自分の親戚づきあいを再考させてくれるこの温かさ。
昨年1月に初めて会った親戚ですが、家族のように接してくれるみんなに会いたくて
戻ってきました。「戻りたい!」と強く思って戻ってきました。

しかしあれですね、この1年はあっという間だったというくらい、自分の中では、
強い思い出として残っている昨年の1週間
1年前がつい1ヶ月前くらいのように思います。
語りだしたら長くなっちゃう・・・

さてさて、サンパウロに来る前の話。
お世話になったニテロイ、リオデジャネイロを出て、一路バスはサン・ジョゼ・ドス・カンポスへ。
友人に会いに行きました!
 みんなとは、アルゼンチンのブエノスアイレスとコロンで一緒に行動した仲間。
ほとんどみんなサンジョゼに住んでいたから、みんな集まってくれました。
日系の方の新しい友達もできたし。こういう出会いと再会が、おれの旅の流れになりつつあるなあ。
泊めてくれたWlliamウィルのお家。お母さんとお父さんとは日本語で話しました。
ウィルは、英語が上手で、おれのポルトガル語が全然だめだから、英語を使ってくれました。
まだ大学生で若いウィル、でも、落ち着いていて、見識深い人だから、おれが学ぶことが多かった。
これからもずっと友達でいたいな。

 この看板は、アサイーのお店。
ブラジルでは、アサイーという果物があります。御存知の方もいるのでは?
アサイー、健康にいいらしくて、ブラジル人、特に北部の方が常食としているようです。
 ここでは、シャーベットにして食べました。病み付きになる味で、バナナやコンデンスミルクなどと合わせるとまたよいということでした。
 街の公園にて。サンジョゼは、観光地ではないです。サンパウロから1時間半くらいの距離にある閑静な街。ここには、JAXAの組織もあるとか、記憶が曖昧だけど。

 日本人が多く住んでいる場所であり、日本庭園もありました。
目を凝らすと、石の灯篭のようなものが見えますよね。大阪の門真から資金提供があり作られたものだそうです。
子どもの遊び場がたくさんある公園。遊具の下には、砂が敷き詰められていました。

サンパウロ滞在中にもう一度サンジョゼのみんなに会いたい、
パタゴニアで会ったブラジル人の友人に会いたい、って思ったけど、
やっぱり親戚に会った瞬間、「この2週間は、このみんなとずっと一緒にいたい」って思った。

2014年2月10日月曜日

ニテロイの街

本当に大変お世話になった3日間でした。
リオデジャネイロではなく、対岸のニテロイ。
記憶が曖昧だけど、ある番組でニテロイを歩く旅番組があったのを思い出した。
古い建物がある中にも新しい建物がたくさんできてきて、
優しいまなざしをもつ人たちがたくさん住んでいる港町。

実際に、そこに住む方に聞いたら、リオと比べると全くといっていいほど、
犯罪がないという。

そして、このリオやニテロイの景勝は、世界遺産にもなっている景色。


 お世話になった恩人のお嬢さん方と。
 ここは、パラグライダーの飛び立つ場所。
 このフェリーで、リオとニテロイを行き来する。所要30分程度。
 ブラジルは果物の生産が盛んだと感じるんだけど、きっとそれはチリやアルゼンチンから来たからかな。ボリビアの果物の豊富さを思い出すんだけど、ここではココを堪能。
 オスカーニューマイヤーの博物館をバックに。そういや、このオスカーニューマイヤーの美術館は、先日訪れていたクリチバでもあったんだ。
 このオスカーニューマイヤー美術館で展示されていたものが衝撃的な作品ばかりでさ。
「これは見ると衝撃を受けますので、あらかじめ注意してみてください」というのが書かれてるんだ。
 一昨年亡くなったとのことだったけど、偉大な方だったのが作品の端々から伝わってくる。
調べてみれば、104歳で亡くなって、ブラジルの主な建築を手がけている方だったのね。
特に、計画都市として有名な、現在の首都ブラジリアを作ったのはこの方だといっても過言ではないみたい。

これはクリチバの美術館
 さて、話をニテロイに戻して・・・ニテロイには、リオの海岸に勝るとも劣らない海岸が多くあります。
「リオの海岸は世界一」というのはまさしくと思うのだけど、
特に海岸の砂浜がきれいなんです。アップで写すの忘れたけど。
 土曜日の朝早くに行ったんだけど、すでに多くの家族連れが。
大人はビール飲んで、食べたいもの食べて、子どもは波打ち際で遊ぶ。
ブラジルの人はあまり泳がないと聞きましたが、「泳いでいる人」はやっぱほとんどいなかったな。
そして、昼近くになると、気温は40度近く(くそあつ)。しかし、水温が23度くらいだったからちょうど良くて快適な海水浴。
 これは、焼き菓子みたいなパンの中に、カマローネス(海老のクリーム煮)が入っている。
3ヘアイス。だいたい150円くらい。

 これ、帰り際に撮った写真なんだけど、もう暑くていられなくてさ、でも、ニテロイっ子や
カリオカ(リオに住んでいる人のことをいう)は元気に海水浴していました。
 ニテロイでは、日系の方に3日間お世話になりました。
一世の方ともお話しする機会をいただけて、ボリビアの一世の方とはまた違うご苦労、ご経験をされたということが改めて分かりました。
そして、ここニテロイでは、土曜日に日本語補習教室の様子も拝見させてもらいました。
日系人だけでなく、ブラジル人も学びに来ていました。
そして、大人も子どももアニメや漫画に興味があって、それがとても強い学習意欲につながっているということ。

突然の訪問にも、温かく迎え入れてくださったMさん、ありがとうございます。
とてつもなく甘えて、際限なく甘えてしまって、申し訳ない思いがあるので、日本に帰ってからお礼をします!

そして、次の目的地は、またまた知り合いの地、サン・ジョゼ・ドス・カンポス。
友人に会うためだけに行ってきました(笑)。