2014年9月25日木曜日

オシフィエンチム(アウシュビッツ)強制収容所とビルケナウ強制収容所

いまは、すごいですね、ウェブ上に百科事典があるって、ほんと便利。
全てが正確な情報ではないかもしれないけど、ウィキペディアのアウシュビッツ強制収容所のページは情報量が多いので、詳しく知りたい方はそちらを参照してみてください。

クラクフの街から、バスが出ていて、1時間半くらいで着きました。
オシフィエンチムという場所には2つの強制収容所があります。
最初に建設されたのが、アウシュビッツのほうで、追加して作られたのがこのビルケナウ。

人が嫌いなことの一つに、「何もさせてくれない」というのが挙げられると思うけど、
さらにここでは、死を待たされている(送り込まれたユダヤ人たちはたぶんそれを知らされていなかっただろうと思われるが)という状態・・・
バラック小屋がいまはこの状態
下が土なのですが、この上にとくに何もしかずに生活させていたみたい
だから雨降るとぐちょぐちょに・・・
ここには、東欧諸国からユダヤ人が送られてきていました。終着駅というか・・・
ひどい話ですけど、SS関係の誰かがこういったそうです。
いつどうやって出れるのというユダヤ人の質問に対して、
「お前たちが出て来れるのは、煙突の上からしかない!」って。
バラック小屋

女性特別室というのがあり、水も与えられないという状態で、つまり餓死するしかないという状況が作られていた。
その部屋では、たまたま観光客がいなくなった瞬間があって、ぞくっとした。写真はさすがに撮れなかった。


これは、遺体焼却施設兼ガス室。
囚人たち(と呼ばれていたユダヤ人たち)は、最初の頃わけも分からず、
服を更衣室で脱ぎ、衛生のためのシャワーを浴びるために、
水が決して出ることのないシャワー室に入っていったみたい。
そして、10分から15分、ガスが充満した部屋には遺体となったユダヤ人たち。


これが更衣室
ガス室は、証拠隠滅のため、SSにより破壊されたという。
しかしこのガス室を作った人はどんな気持ちだったのだろう。その用途を知らされてなかったとも言われている。
狂気の時代に生み出されたものであろうと、もしかしたら、よかれと思い作らされ、実施されたものなのかもしれない。
でも、証拠隠滅のために施設を破壊したということは、犯罪の意識があってのことだろうから・・・

これが送り込まれてきた電車の線路
送り込まれて、即判別されて(つまり、仕事上『使えるかどうか』判断されて)老女や子どもなんかは、
そのままガス室に送り込まれていたそうだ・・・
服から使えそうな物、歯から取った金などは、倉庫に入れられたり、SSの私物になったり。
次は、アウシュビッツ。ここにも「労働が自由をもたらします」という看板。
写真を写真に撮ってきました。このアウシュビッツの施設には、日本人のガイドさんがいて、
その方が数少ない公認ガイドさんみたいです。その方にできればお話を聞きたかったのですが、
時間も合わなくて、お会いできなかったです。
これが強制収容所行き電車
ここアウシュビッツでは、各国の部屋があり、つまり、イタリアの大戦中のユダヤ人の様子や
ポーランドの彼らの動き、ハンガリーの・・・というように。
割合から見ると、もちろんユダヤの人々はパレスチナ地方に多いのですが、
人数を見ると、ポーランドとウクライナが非常に多いことがわかります。

これは、強制収容所のあった土地を示した図
大きな文字で書かれているところが、殺された人数が多い土地
この部屋の映像が酷くて、初めて見る映像ばかりだったのでじっくり見てきました。
餓死の様子

何も与えられず、死を待つのみ・・・
この映像を見ていて、ルワンダの様子を思い浮かべてました。
人間が、一人の人間が、こうも簡単に、雑に扱われる様子を見ていると、ただ単に
「こんな時代があったんだ・・・」では終わらない感情が湧いてきます。

ナチスドイツには、「人種衛生研究室(Racial Hygene Labolatory)」という嫌な名前の団体があったみたい。ユダヤ人という人種が生まれてこないように、遺伝子操作をしようという試みであったみたいだ。人が、人種で判断される。これは、本当に、昔あった話ではないし、これからも起こりうることだなと思っていたとき・・・この言葉がありました。

たぶん、ユダヤ教の司祭の言葉だけど、
「起きたことだからこそ、また起こりうる。これが私たちが今言える確実な真実だ。」と。

だから、私たちは歴史を大いに学ばなければならない。
そして、二度と起こらないように、あらゆる人々に優しくなっていかなければならない。
最近、近隣諸国との摩擦が激しいなと感じています。(今になって始まったことではないけれど)

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