2014年4月29日火曜日

一時帰国のもう一つの目的

弟の結婚式への出席が目的で、一時帰国しましたが、
理由はもうひとつあります。
愛犬との再会です。


ここからは、あまり旅とは関係なくなるので、
見たい方だけ見ていただけると幸いです。


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不思議なことがありました。
アルゼンチンのナウエル・ウアピという国立公園をトレッキングしていて、
下山ポイントのコロニア・スイサというキャンプ地に着き、一泊したときです。昨年の12月中旬です。
テントを鼻でつついて起こそうとしてくる犬がいました。
黒い、ラブラドールと雑種の混血種の一匹の犬。
妙になついてきたんです。
その犬を見て、実家で飼っているラブラドールのケビンくんを懐かしく思いました。
そして何か不思議なかんじだったので、家に連絡を取ってみたところ、
生きる死ぬの狭間だったとのこと。




「帰って会いたい・・・」その瞬間思いました。


その後、ケビンの体調は持ち直し、4ヶ月。
ついに再会できたときは、本当に嬉しかったし、よくがんばったと思いました。
私が20歳のときに家に来たケビン。
もう14歳近いです。人間で言うと、90歳超の年齢。実際、旅に出る前に、「もう会えないだろうな」と思い、別れてきましたから。


その愛犬ケビンが、昨日急に体調が悪くなり、何度か息が止まってしまいました。
加齢が原因できっと様々なところに病気があるのだと思います。
個人的で勝手な思いですが、
「おれに会うためにがんばって生きてきたのかな・・・」
とやっぱり思ってしまいましたし、
神様がこうして再び会うことを可能にしてくれたのかなとも思います。


なんとか持ち直し、水も飲むようになりました。


友人知人と会う約束をしていますが、
家族を優先して過ごしていきたいので、
ケビンの世話を中心にしばらくいます。


急に会えなくなるかもしれません、そのときはすみません。





2014年4月27日日曜日

弟の結婚式

以前から知っている奥さんだけど、
改めて、弟のこと、よろしくお願いいたします。
私は、あなたと家族になれて幸せです。
こうやって家族が増えることがなにより素晴らしいことだな。
いよいよ次は自分の番になりました(笑)

いとこの兄ちゃんと。
いつまで経っても、おれは弟だ!
おれは、この人の弟で嬉しい。

2014年4月25日金曜日

今週は、家族とのんびり過ごしています

再度旅に必要なものを買い揃えたり、手続きを行ったりしています。




<改めて、日本すげーなって思った今日の出来事 part1>




一つ目は、大型書店のトイレの大便をするところに、
ロールが3つ予備で置いてありました。
単純に、これすげーなって思ったのですが、
置いてあるロールを取る人が少ないから置けるんだなって。
お店側がお客さんを信頼してるから置けるんだし、
お客さん側は取って持っていかないことがモラルだと理解して生活しているんだと思うと、これはすごいことです。




二つ目は、サービスの良さ。
関空に着いて、コンビ二に入ったときにすでに感じたのですが、
列に二人並んだだけで、即店員さんが飛んできて「隣のレジへどうぞ」と。
全店舗そうではないと思いますが、相手の時間を大切にするという点で、
そういう教育をしている会社がすばらしいと思った。
こんなところ、少なくともおれが周った国にはなかったから、
ひさしぶりに「サービスの質の高さ」を味わえてうれしかったな。



2014年4月23日水曜日

戻ってきました!!!

2年ぶりの日本・・・。
でも、父と母と話して、家の中を見て、こうして生活に戻ると、
なんだか2年という時間を感じさせないものです。

しかし、やはり、今までとは違う視点で物事を見るようになってます。
もちろん、日本の良さをいたるところで実感できます。今だからこそ、です。

このブログは一時帰国中も続けます。
カテゴリは「日本」ということで、これも旅の一部です。
日本での旅ということで、発信していきますので、これからもよろしくお願いします。

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空港には、母に迎えに来てもらいました。
遅れも予想して、1時間遅く待ち合わせしたはずなのに、ターミナルで母は待ってました。
とてもありがたかったし、会えてとても嬉しかったです。
ブラジルで父と会ったときと同じ感覚です。
やっぱ、「家族」です。

 帰る途中に、幕張にある大型スーパーに寄ったのですが、
そこで、なんと、アサイーとグアラナをゲット!
ブラジルでの日々を再び。これがあれば疲れ知らずです。
夜は父と母と寿司を。
いろいろなところで食べてきた寿司ですが、やっぱ日本で食べる寿司はネタの種類が豊富なだけあって、自分のなかの理想の寿司です。
牛丼も食べたることができたので、大満足な帰国初日でした。

2014年4月22日火曜日

ナイロビ出国→29カ国目香港→大阪

いま大阪の関空にいるんですが、
日本人がいっぱいいて、日本語がたくさん聞こえて、綺麗な空港を見て、
自然と笑みがこぼれてきました。
めちゃめちゃうれしいです。

これから、東京に向かいます。


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さて、ナイロビを無事出国した私は、エチオピアを経て、香港に到着。
10時間くらいあるので、外に遊びに行きました。
目的は、「プールで泳ぐこと」です。
香港島に、綺麗なプールがあるのです!
がっつり3000m泳いできました。
習志野や辰巳のプールにも引けを取らない、そして、監視員の多さに驚いたプールでした。
大プール(50mプール×10コースくらいに、7,8人の監視員がいました)
中を撮れなかったのが残念!
一ヵ月後また来ます
 少し香港の写真を。
雑然としているけど、ゴミが落ちていないのは、アフリカや南米とは違うなあと感じる。
 あとは、上を見上げる頻度が多い笑







じゃあ、今度は東京から!ちゃお!

2014年4月20日日曜日

ウガンダ→28カ国目ケニア入国!

 この国境越えが・・・最後のThis is Africa!になればいいだけど・・・。

ウガンダのジンジャを夜1時に出る予定が、2時になってもなかなか来ない。いやな予感。
係の人に詰め寄るが、要領を得ない。全然説明をしてもらえない。
「本部の人と電話して、今の状況を確認して、それで対応をおれたちに伝えて」と言うが、
行動が遅い。
3時になって、ようやく他からこの場所に向かっているバスが、事故で警察につかまっていると分かる。
出た出た、This is Africa!最後に待ちかまえてましたね。
代替車はこない、返答も来ない、
ナイロビのホテルを予約しているおれとしては、なんとか今日中にナイロビに到着したい。
4時になって、本部から返事が到着。
「明日の便にしてちょうだい」
・・・なんてこった、いままでのこの待つ苦痛の時間、どうしてくれるのか。
アフリカでのこういう場合の対応は、もうわかってる。

「自分で道を切り開いていくしかない」

どんなに辛くとも、待っていても打開策はない。
だから、自力でナイロビまで行くことにした。

返金を急いでさせ(これさえも渋るバス会社、わけわからん)、
乗り合いタクシーで国境近くまで向かう。

夜が明けはじめてきた頃、バイタクに乗り換え、ケニアとの国境に到着。 なんとも簡単な国境ごえ。 今回のビザは3日間だけ滞在用のトランジットビザ。US20ドル。 その後、運良くナイロビ直行のバスを見つけ、12時間。 夜8時、雰囲気悪いナイロビのバスターミナルに到着。 チャイニーズへの怒号飛び交う中タクシーで宿まで移動。 ゆったりとした夜を過ごせました。 最後までthis is Africa. ただいま、ケニアの空港で、飛行機乗る直前。 とりあえず、香港まで!

ウガンダという国・・・

最終的な印象として、正直あまりパッとしない国・・・笑
人は温厚で、まあ町も落ち着いていたんですが、いまいちパッとしない。

カンパラと、ジンジャという町に滞在していたのですが、
カンパラは、排気ガスがひどくて、歩いていてガスのにおいしかしませんでした。
おもしろい写真をいくつか。
首都カンパラのタクシーパーク
ここから近距離の町へのタクシー(ミニバス)が発着
この台数!
どうやって中心のバスが出るのか不思議だったけど、なるほど
うまく避けながら、切り替えしながらちゃんと出て行った

カンパラにあるお土産村

だいたいおんなじ物売ってたけど、値段は若干違うし
要交渉

話してみて、気が合う人のとこで買いました
そこのおばちゃん、率直というか、
なんでも物をずけずけ言う人だったから
なんか好きになった

ウガンダミュージアム、
しょ・・・ぼ、でも説明は丁寧

ここ、フードコートの中なんだけど、
だいたい人は屋台で食べるのか
ほとんど人が入ってなかったフロア笑


ジンジャという町には、プールがあると聞いてきたので、わくわくしてたけど、
結局1回しか入れず。午後に行ってみたら、1回は閉場時間過ぎていたし、
1回は子どもと家族連れでいっぱい、とても練習できるような雰囲気ではなく、
でも、朝1回泳げたのが自分にとって活性剤になった。
ジンジャクラブという中にあるプール
1回(1日)5000シリング、だいたい200円

そのジンジャクラブからは、ナイル川の源流近くが見られる
見えているのはヴィクトリア湖
タンザニアのムワンザから見たヴィクトリア湖は
ちょうどこの反対岸にあたると思うと、感慨深い

ジンジャの街並み、まあ、なんてことない町でした

ここしばらく泳いでなかったから体も不調だったけど、
体調管理のために、改めて、プールが必要だと分かった。

そして、いよいよ旅の一旦終了に向けてケニアに入国。

2014年4月19日土曜日

ルワンダ(キガリ)→27カ国目ウガンダ(カンパラ)入国!

といっても、もうすでに28カ国目、ケニアに入国し、あと二日で出発するというところまで来てます。
もおおおおお、ほんとに最後の最後まで「This is AFRICA!」ってのを味わわせてくれたよ。
まったくもおお。
じゃあ、話を少し前に戻します。

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首都(ルワンダのキガリ)から首都(ウガンダのカンパラ)移動です。
中南米の首都に比べると、アフリカの国々の首都(南アやケニアの首都を除く)は、
だいたいキュッとまとまっている。
ですから、タクシーを使っても、そんなたいした金額にならずに、
目的の宿までたどり着けるのがよい。
南米だとタクシー使ってたら金額が心配になってしまうもんだから、
ついついバスやメトロを乗り継ぎ目的の宿に行っていた。
バックパックを担いでの移動って、意外と大変なんです。(キャリーバックでも同じか)

さて、首都キガリのニャブゴゴターミナル(の近くに宿を取ってたので助かった)から
朝9時に出たバスは、比較的整備されている道路を進むが、
こっち、ルワンダの道路

こっち、ウガンダの道路
国境近くになると穴ぼこだらけの道になる。(まあ、ウガンダも道路ひどかったが、ケニアはもっとひどかった笑)
そして、国境を過ぎて思ったのが、道路環境が全然違うということ。
ルワンダは、虐殺以来、外国資本でインフラ等の充実が図られたのに比べて
ウガンダは、それほど外国資本でのインフラ整備は進んでいないからだ、と思う。
(アミン政権時に、外国勢が一時総退去したという歴史を持つ)
バスの中では、本当に雰囲気が各国違うんだけど、ウガンダ人が多かったのね。(パスポート見てわかったんだけど)
ウガンダ人、めっちゃしゃべるのね。10時間ほぼしゃべりっぱなしの人もいたし、
隣のウガンダ人のおっさんとよく話したんだ。
彼は日本のコマツの人たちとも働いたことがあるエンジニアだった。
夜、無事首都のカンパラに到着。
目的の宿までは、バイクタクシーで移動。
夜だというのに、ものすごい交通量。

そして乱暴な車、バイタクをぜひビデオに撮ろうと夢中になっていたら、
バックパックにかけていたパックカバー(ブラジルで購入、1500円くらいした)が、気づいたら吹き飛び、なくなっていた。
愕然・・・。
残りの移動をパックカバー無しか・・・と意気消沈で宿に入った。、

2014年4月17日木曜日

ミルコリンホテル

キガリにある4つ星ホテルである。
「千の丘」という意味の名前。

この旅の中でぜひ行きたい場所っていくつかあるんだけど、
そのうちのひとつが、このミルコリンホテル。
映画「ホテルルワンダ」の舞台になったホテル。
1994年当時、ルワンダ全土でツチ族が一掃される中、
このホテルの副支配人であったポール・ルセサバギナ氏が、ホテル内にツチ族を、
事態が沈静化するまで保護していたという。
この映画を見たときに、ぜひそのホテルを見てみたいと思っていたのだ。


泊まってもいいんだけど、一人でしょ、おれ?バックパッカーじゃん?
次、誰か一緒に来たときに泊まります。
それくらい素敵なホテルでした。

このプールの水を、当時、飲み水や生活用水にしていたそうですが、
かくまう生活が続いたことで、その水も底につきかけたという。


Wifi5日間使い放題というカフェ。
はじめからここに来ればよかった。
あっ、でもフルーツサラダとコーヒーで10ドル(笑)

ホテルに建てられていた記念碑

この日は、2度目のキガリ虐殺記念館訪問。
日曜日であったため、前日に引き続きセレモニーが行われていました。

宿に着き、若いオーナーのウィリアムくんと少し国内の話をした。
彼は、虐殺当時は隣国ウガンダにいたようで、ルワンダに戻ってきたのは1995年だという。
当時は、ツチは、人ではなかったと言ったのが印象的だった。
つまり、人間として扱われなかったということ。
差別の話になったんだけど、今は警察が国内に多く配置され、そういう差別的な行動が見られると、すぐに拘束されるような体制になっているのだという。
残念だけど、虐殺があったここルワンダでも、
「ヘイ、チャイナ!※^%$#」とわけの分からぬ言葉ですれ違いざまにかけられることがあり、
一回マジで、
「そういう差別があるから、虐殺につながったんだろ?!これ、いつか、アジア人に対する差別が虐殺につながる可能性があるぞ!」とぶちきれたことがあった。
そのときは、周りにいたルワンダ人が「ごめん、すまん」とおれに謝って何とかおさまった。
おれこれ確信的に思うんだけど、差別は放っておくと、いつかひどい大事件につながると思う。
いじめと同じだけど、やっている側が、「おっ、まだまだいけるんだこいつ」って思うんだよね。
だから、よく分からないムカつく言葉を投げられたら、
立ち止まれるときは立ち止まって「ふざけんな、それ差別的な言葉だろ!」って言うようにしてる。
中南米でもそうだけど、これだけアジア人が、いや中国人が、理由もなく(いや、あるのかもしれないけど)差別的な扱いをされているなら、
放っておける事実じゃないよ。


くっそー、ホテルミルコリンの素敵な話と風景が、どこかへ飛んでいってしまう悲しい話題に変わってしまった・・・笑
若いオーナー、ウィリアムくんに話を戻すけど、
彼は夢があって、日本でエンジニア(車)の勉強をしてみたいという。
英語が通じる英語圏の国がおすすめだよと言ったけど、ルワンダで活躍しているJICA(ジャイカ)の姿を知り、そういう活動をしている日本にいってみたいという。
それ聞いて、なんだか嬉しくなったな。
まあ、できることはするから、がんばれ、ウィリアム。

2014年4月16日水曜日

ニャマタ記念館とンタラマ記念館

キガリのニャブゴゴバスターミナルからバスで45分くらいのところに、ニャマタという村がある。
そこにも記念館があるというので行ってみた。
余談だが、中田英寿氏が6年前にここを訪れた映像を見たことがある。

ここにも、無数の頭蓋骨、遺体が身に付けていた衣服が並べられていた。
地下にある部屋に入ると、生きている私の顔から50cmのところに、静かに、
1000以上の頭蓋骨が並んでいる。
別の部屋には、棺桶が並んで積まれてあって、それらを前にして、
恐怖で足がすくんで進めなくなってしまった。
教会を掃除しているおばさんが「こっちにも部屋があるわよ」と手招きしているが、
入ろうかどうか少し躊躇するくらい入りたくなかった。
見終えたところで、遺族の方々であろう人々が献花に集っていたので、
私はその場所を後にし、次の場所へ移動した。


ニャマタの近くには、ンタラマという村があり、そこへも行ってみた。
バイクタクシーとあらかじめ値段交渉をすべきだったのに、
ニャマタの記念館を後にしてから交渉をし忘れていた。
すこしバイタクの兄さんとけんかになり、嫌な気持ちを持ったままその記念館に入ってしまった。
ここはガイドと共に歩いた。

印象的だったのは、子どもの頭蓋骨が部分的に欠如しているものが多数。
理由を聞くと、「こっちに来なさい」ということで連れて行かれた部屋には、
壁に、子どもを叩きつけてできた血痕が残っていた。
さらに、女性の体を下から突き刺すための竹やりのダミーが置かれていた。

この場所にも、きっと遺族であろう人々が集まり、献花していた。
ガイドが説明してくれるが、基本的にはこういう記念館、寄付であり、入場料は取らない。
ガイドに少しばかりお礼をし、後にした。

帰りは、徒歩で近くのバス乗り場まで30分くらい歩く。
地元の子どもたちはおれを見て「ンズングー(外人)、ギブミーマニー」と冷やかす。
彼らに英語はわからないだろうけど「大きくなったら働きなさい」と言うことしかできない。
お金をあげても(おれは絶対にあげないけど)、何の解決にもならないからね。

見てきたものは凄まじかったが、この日ものどかな1日だった。

2014年4月14日月曜日

キガリにあるKigari Genocide Memoriam

この日はキガリ市内を巡ろうと考え、まずはバスターミナルからも近い、
キガリ虐殺記念館に行った。
バイクタクシーでニャブゴゴバスターミナルから500フラン(80円ほど)。


入り口は厳重に警備されていて、入念な荷物チェックもされた。
館内は入場料無料であったが、寄付のつもりでオーディオ解説(10ドル、1000円くらい)を借り、館内を歩いた。
壁面に丁寧に説明が書かれているから、オーディオはいらなかったなと思いながらも、
英語の勉強とばかりに必死に聞いた。

前日に訪れたキゴンゴロのムランビ虐殺記念館の壁面説明をより詳しくしたかんじ。
「そこまでフツを駆り立てたものってなんだったんだろう」と昨日疑問に思っていたが、
ここで少し答えが見つかる。
ツチは少数派で、経済的に裕福、権力も握っていた立場だったのか。
フツの人々は、「すべてを奪ったツチ」という見方を大方していたのだろうか。
そしてその少数派ツチを殲滅しようと、94年だけではなく、何年も前からフツは攻撃をしかけていたのか。
特に、女性と子どもの被害が多かった理由は、「ツチを根絶やしにするため」か・・・。

ここでは、ビデオがいくつも見られる。
当時生き延びた人々の証言だ。
その中で印象的だったのが、
「すべてのフツが悪ではない、5%は良くて、5%は中立、そして90%は悪だ。」という女性。
その良いとされる5%の中には、フツから見て「裏切り者」として、犠牲者になるフツ族の人もいたという。
また、
「家にまで遊びに来ていた、一緒に働いていた同僚が、その日(4月7日)いきなり『おまえのことは知らない』と言い出した。そしてナタを振りかざして私に切りかかり、殺したと思ったのだろうか、そのまま去っていった。」という男性。

そういう証言や資料を見ながら歩いていくと、
1994年に人生をやむなく終えた人々の写真が飾られている部屋に行き着いた。
5,6000枚はあろうかという写真。それでも本当にごく一部の数。
笑っている人、家族と写っている人、子ども、老人・・・
そうして見ているうちに、なんだか涙が勝手にこぼれてきてしまった。
部外者で、外人なのに、なんで泣いているんだおれは・・・と思ったそのとき、
笑い声だか嗚咽だか分からないほどの声が後ろから聞こえてきた。
何人もの人に抱きかかえられ、号泣している遺族であろうその人は、
一枚の写真を抱きしめていたのだ。


・・・20年経っても、こうだ。


記念館の最後には、「子どもの部屋」というものがある。
そこには、死に方が書かれていて、この子はこうやって殺されたと記されているのだ。
2歳の子どもは「壁に叩きつけられて」と。
9ヶ月の子どもは「母の手によって、マチューテ(刀)で」と。
最後に書かれていたのが、
「未来のこの国を担うであったろう子どもたち」という一言。

そして、この記念館をあとにしました。
外に出ると、埋葬の儀式が行われていました。
20年経って改めて身元が分かった人なのだろうか、
それとも、発見されたのが最近であった人なのだろうか、

そんなことを思いながら、帰途につきました。

2014年4月13日日曜日

ジェノサイド(大量虐殺)

そのとき14歳、水泳とゲームに夢中だった思春期真っ只中だった私は、
アフリカのとある国で、100日間で100万人(一説によると)が殺されたという事件は、
全く耳に入ってこなかった。
果たして日本のニュースで取り上げていたかどうかも今となっては分からない。
だって、1992年から起きたボスニアヘルツェゴビナの紛争のニュースの記憶はあるんだもん。

計算してしまいました・・・。100日間で100万人、つまり、1分間で7人が、
このルワンダで殺されていたという。
今はルワンダという国でくくっているけれど、民族の対立が要因のひとつだという。
この事件の背景には、
・ベルギーの植民地時代の政策
・宗教界の思惑
・ヨーロッパのとある国の政策
・近代におけるそれぞれの民族の対立・・・等
そういったものがあり、今でも真相が隠されている部分もあるのではないかとされている。
詳しくは、ウィキペディアの情報を見ると分かると思う。
虐殺記念館にいくつか(キゴンゴロにあるムランビ虐殺記念館やキガリにある虐殺記念館)
に行ってきたけど、そこで書かれている情報が、ウィキペディアの情報だったから、
日本からでもその虐殺の様子は文から分かりうると思う。


今では写真撮影は禁止になってしまっているけど、
写真を「ああ、これはおれは撮れない」って思うほど、遺体の状況がすさまじかったです。
でも本当はこういうものは写真を通してでも、全世界に「わすれるな」という思いを伝えていくことが大切なのでは?とも思ったので、こっそり撮っちゃいました。

この虐殺、私はある映画で知りました。そこで知らなければ、もしかしたら一生知らなかったのではないかとも思ってます。
「ホテルルワンダ」
実際に実在している、あるホテルマンの話。
これを最初に見たときは、震えましたし、
なんだか信じられなくて「これは史実なのか?」と疑いました。
それほど凄惨です。

今日、石灰で防腐処理された遺体を、何百とある遺体を見てきました。
その防腐剤のにおいで頭が痛くなりそうなほど、そのにおいが部屋中に満ちていました。

遺体には、頭が破壊されているもの(マチューテ、ナタが多く使われた)
足がないもの(逃げられないように切られ、徐々に殺されたという)、服を着ているもの、
子ども、大人・・・。
20くらいある部屋に、50体ずつくらい、すべて遺体。
そして、あっ、人だわ全部・・・って分かるくらい原型をとどめている。

今、こんなに温厚そうで、優しそうに見えるルワンダの人が、殺しに殺しまくった虐殺。
プロパガンダとして、ラジオが使われたことは有名だが、
そこまでフツ族の人たちを駆り立てたものってなんだったんだ。


今日の朝焼けはとても綺麗でした。
丘の景色の中に霧が立ちこめ、でも、日差しが一部差し込んでいる。
あの日、1994年の4月も、こんな綺麗な朝があったのだろうか。
どんな気持ちで、ツチ族の人たちは朝を迎えたのだろうか。

タンザニア(ムワンザ)→ルワンダ(キガリ)26カ国目入国!

結構このルート、多くの旅人が通ってるのかなと思いきや、
情報を探してみても、そんなに多くない。
しかし、ウェブ上の情報があって、助かりました。助けられたので、私も情報を残しておきます。


タンザニアのヴィクトリア湖沿いの町ムワンザから、ルワンダ方面にバスが毎日出ている。
朝5時発ということで、4時には起きて、バスターミナルに向けてタクシーをつかまえる。
まだ真っ暗なのに、バスターミナルはとてもにぎやか。
アフリカのバスは、どうしてこうも朝早い・・・(深夜便が少ないのは、事故が多いからだと聞いたが)
なんと定刻どおり発、人数がきちんと制限されているナイスな環境!やるじゃないか、タンザニア。
1時間ほどしてヴィクトリア湖を横断。
ここはみんな自腹でフェリー代(500シリング、だいたい35円くらい)を出す、さすがタンザニア。
フェリーから撮った一枚



人を下ろしてから車が下りる

ここの朝焼けが気持ちよいものだった。
そして、ヴィクトリア湖周辺には巨岩、一枚岩みたいなものが多い。

これだけそろっていると、なんだかひとつの文明がここにあったみたいに感じられる。
こうしてバスはフェリーを降り、一路ルワンダ方面に向かう。

閑話休題。
タンザニアの男性、いやルワンダでも見たぞ、男性同士で手をつないで堂々と歩きます。
最初見たときはびっくりしたけど、きっと親愛の証拠なのでしょう。
私がアルーシャの病院で苦しんでいたときに「別の病院へ行こう」と案内してくれた人(男性)も、
おれの手を握り、共に歩いてくれた。そのときはなんと心強かったことか。
なかなかその瞬間を撮れなかったけど、ようやく。
けど、どう思う?笑
さて、バスは超とばしてルワンダ方面に。
ここ、大事な名詞なのに、忘れました。ボパニだかバポニだか、ボナピだか。
そんなような地名があって、そこがルワンダの国境に一番近いという。
何人も降りる人がいたが、黒人だからきっと地元の人たちなんだろう、旅人は見かけない。
そこで待ち構えていた乗り合いタクシー(5000シリング、だいたい4.5ドル)で、30分先の国境まで。
緑あふれる国境地帯。
タンザニアの国境を抜けると、大きな滝が水しぶきを上げて流れている。


思わず感嘆の息をもらしてしまいました。

そして、ルワンダ側からは1人の日本人が歩いてくるではありませんか。不思議な瞬間でした。
二言三言交わして、お互いそれぞれの国境へ。

ここからルワンダです。

ビザ取得のために、事前のウェブ申請が必要でした。
1週間前に「2,3日かかります」と言われたビザ請求書類がメールで届きました。
それを印刷し携え、ビザ代(30ドル、シングル)を払い、すんなり取得。
なんともスムーズなビザ取得&国境越え。
その後、少し歩いてバス乗り場まで行き、
首都のキガリ行きのバスに乗り込む(3000フラン、およそ4.5ドル)。
幸いバスはすぐに出発してくれたが、小さい国なんだけど、千の丘の国と言われるだけあって、
丘陵地帯を走るもんだから、ノロノロ運転。
国境から4時間かかって、首都キガリのニャブゴゴバスターミナルに到着。

ルワンダ、国境からキガリまでの様子を見ての第一印象。
ゴミが落ちていない・・・。綺麗だ。
ビニール袋撤廃に努めているって聞いたけど、なるほどそういうことか。
なにも環境だけじゃなくて、
丘の様子がとても綺麗で、穏やかな様子をもっていて、のんびりした時間を感じられる。

そうした中で、バスから見えた景色がある。
いろいろな町で集会を開いているのだ。
「kwibuka20」というスローガン(?)というか、旗をかかげて。
そのときに、はっとした。
1994年に起きた大虐殺が、今年20年を迎えると知ってたけど、
まさか、虐殺が4月の上旬に起きたのでは・・・と。
投宿後、インターネットカフェで調べてみると、
やっぱりそうだった、飛行機爆破があったのが、1994年4月6日だ・・・。
あれから20年が経つのです・・・