2014年9月28日日曜日

プラハにある共産党ミュージアム、平和への希求

いやー、本当に勉強になった。私の知らない歴史ばかりが展示してあった博物館でした。

「Communism Museum」という博物館が、プラハの中心部にありまして、
チェコがいままでどのような歴史を辿ってきたかが、小さな博物館でしたが、ぎっしり解説され、わかりやすく説明されていました。
共産主義体制について書かれている展示もありましたが、
特に、人々の生活についても大きく取り上げていたのが印象的な博物館でした。


簡単に言うと・・・
戦後、ソ連の社会主義に押され、チェコは共産化していきました。
最初はそれでうまくいっていた(?)ようでしたが、だんだんと生活が厳しくなっていきます。
博物館の中で、苦しくなっていく生活の例として出されていたのは・・・

「いろいろな物品の価格は統制しているわけですけど、要求が供給を越すと、
利益を出したくなる店員さんたちは、物品を隠し、顧客を選び、闇マーケットができます。」

つまり、価格を上げて秘密に売るということ。それでも、その物品が欲しい顧客はいるわけで、
そういう人は価格が高くなっても買う、しかし、お金を持っていない人は品が市場から消えて買えなくなるから困窮する、というわけで社会が混乱していったそうです。
とくに、医者、修理屋さん、公的書類作成人等がそういった闇マーケットに広がっていったといいます。
医者がいない、いないわけじゃないけど、高額でないと受け付けてくれない・・・
だからといって、緊急に治療が必要な場合は、いくら払ったってお願いをしたくなるのは当然。
スターリン像

反米路線をとっていたし、資本主義というものに対して、
断固として受け入れない姿勢をとっていたようです。

これも当時の様子をよく表しているなあと感心しました
1989年11月にドイツが東西統一を果たし、その直後、チェコスロバキアの共産党は崩壊し、
1993年にチェコとスロバキアはそれぞれの道を辿ることになりました。
私がテレビ等のニュースで知っている事実は、この出来事です。

その後、内戦を経て、今の国に至ったというわけです。
1969年の1月に、プラハでは「プラハの春」という事件が起こりました。
最近、「アラブの春」という事件がチュニジアから始まり、
アラブ社会に広がっていったのを鮮明に覚えていますが、
現状打破という点では似たような出来事で、そのプラハの春ではソ連軍が戦車でもって、
プラハの広場を占領したことがあり、
それに対してヤン・パラフという10代の青年が抗議し、焼身自殺を図ったというものです。

博物館では、戦車が広場を占領しに来たときの映像、警察隊が市民のデモ隊に対して暴力で応戦していた映像などが流れ、どれも私は初めて見たものばかり・・・。
さすがに、警察隊が警棒で市民を殴っていたシーンを見て、周りの人も私も思わず声を上げてしまいました。

チェコの人に聞いた「社会主義国だったころの話(正確に言うと『連邦共和制だったころの話』)」が本当に興味深かった。
その人が子どもの頃、アメリカやカナダ等の国で履かれていたジーンズが全く手に入らなかったので、秘密裏に売る店に行ってあまりの高額さにたまげて帰ってきたとか、
あの世界のどこに行ってもある黒い炭酸飲料が店頭販売は一切されていなかったので、
これもまた秘密裏に売る店に行ってしか買えず、
クリスマスの日にプレゼントでサンタさんがくれて、一晩中大事に抱えて寝たとか。
いまとはちょっと違う生活スタイルだったと話していたのが印象的でした。

最後に、ピースサインが飾られていたので写して帰りました。

「ピースサイン」、じつはあれは写真を撮るためのものではなくて、
平和を希求する象徴」でもあるのです。
映像の中で、誇らしげにピースサインを出していた若者を見て、ああ、そうだったんだなと思いました。

ちなみに、ピースサインは自分の方に向けてやると、国によっては相手を侮辱した意味にもなるということを知ってやっている人は日本にどれくらいいるのだろうか・・・。

2014年9月27日土曜日

38カ国目、チェコ共和国に入国!久しぶりにお会いした方とは・・・

浅草(厳密に言うと浅草の北側です)が実家で、小さい頃から大学時代までをそこで過ごしました。
予備校時代に、髪の毛をいじるのが好きになり、美容室に通うようになりました。
そこでプールのコーチが紹介してくれたのが、まみさんで、しばらく担当していただきました。
その後、まみさんは、オーストラリアにワーホリに行き、会えなくなりましたが、
便利な世の中になりました、フェイスで再会、現在プラハに在住とのことで、会いに行きました。

なんか、一お客さんだったけど、とても親近感があり、家族共々お世話になっていたので、
私は勝手に友人として見ていたのかもしれません。

でも、快く訪問を受け入れてくださったのがとても嬉しく、楽しい楽しい3日間を過ごさせていただきました。




初めてお会いした旦那さんと、元気な、超元気なお子様たちとも貴重な時間を過ごさせていただきました。
とくに、お二人にお会いして、自分の価値観がとても広がりました。
ついつい、一人で旅していると固定されがちな価値観、これを広げることができたのがうれしい。

みなさんご存知でしたか、チェコという国は、国民のビール消費量が世界一であることを。
なんと、1日平均3リットル(子どもから年配まで含み、子どもは飲めないと計算すると)を消費するという・・・。実際にとても美味しい、プルゼン(Plsen)。ドイツ語だとピルセンビールと言いますか、チェコにPlsenという場所があり、そこで作られるビールのことをそう言うそうです。

ここ、プラハは、首都であっても緑豊かで、公園が多い。
子育てするには気持ちが良いところ。
ちょっとプラハの写真を載せていきます。
ブルタヴァ川(ドイツ語でモルダウ川)の上から見上げるプラハ城

ブルタヴァ川(モルダウ川)の脇を流れる小さな水路

観光客で溢れかえるカレル橋
早朝行くとこんなかんじで人が少ない

カレル橋上の物売りと像

川沿いに位置するビシェラードからの眺め

ビシェラード地区にある墓地には
スメタナとドボルザークのお墓がある

遠くに見えるのはプラハ城

ヴィシェラードより南方を見てみて。緑の多さを実感できる。

長水路(50mプール)がありました!
若い選手たちががっつりコーチのもと練習をこなしていました
次回、共産党博物館という、行きたかったところを紹介します。

2014年9月25日木曜日

オシフィエンチム(アウシュビッツ)強制収容所とビルケナウ強制収容所

いまは、すごいですね、ウェブ上に百科事典があるって、ほんと便利。
全てが正確な情報ではないかもしれないけど、ウィキペディアのアウシュビッツ強制収容所のページは情報量が多いので、詳しく知りたい方はそちらを参照してみてください。

クラクフの街から、バスが出ていて、1時間半くらいで着きました。
オシフィエンチムという場所には2つの強制収容所があります。
最初に建設されたのが、アウシュビッツのほうで、追加して作られたのがこのビルケナウ。

人が嫌いなことの一つに、「何もさせてくれない」というのが挙げられると思うけど、
さらにここでは、死を待たされている(送り込まれたユダヤ人たちはたぶんそれを知らされていなかっただろうと思われるが)という状態・・・
バラック小屋がいまはこの状態
下が土なのですが、この上にとくに何もしかずに生活させていたみたい
だから雨降るとぐちょぐちょに・・・
ここには、東欧諸国からユダヤ人が送られてきていました。終着駅というか・・・
ひどい話ですけど、SS関係の誰かがこういったそうです。
いつどうやって出れるのというユダヤ人の質問に対して、
「お前たちが出て来れるのは、煙突の上からしかない!」って。
バラック小屋

女性特別室というのがあり、水も与えられないという状態で、つまり餓死するしかないという状況が作られていた。
その部屋では、たまたま観光客がいなくなった瞬間があって、ぞくっとした。写真はさすがに撮れなかった。


これは、遺体焼却施設兼ガス室。
囚人たち(と呼ばれていたユダヤ人たち)は、最初の頃わけも分からず、
服を更衣室で脱ぎ、衛生のためのシャワーを浴びるために、
水が決して出ることのないシャワー室に入っていったみたい。
そして、10分から15分、ガスが充満した部屋には遺体となったユダヤ人たち。


これが更衣室
ガス室は、証拠隠滅のため、SSにより破壊されたという。
しかしこのガス室を作った人はどんな気持ちだったのだろう。その用途を知らされてなかったとも言われている。
狂気の時代に生み出されたものであろうと、もしかしたら、よかれと思い作らされ、実施されたものなのかもしれない。
でも、証拠隠滅のために施設を破壊したということは、犯罪の意識があってのことだろうから・・・

これが送り込まれてきた電車の線路
送り込まれて、即判別されて(つまり、仕事上『使えるかどうか』判断されて)老女や子どもなんかは、
そのままガス室に送り込まれていたそうだ・・・
服から使えそうな物、歯から取った金などは、倉庫に入れられたり、SSの私物になったり。
次は、アウシュビッツ。ここにも「労働が自由をもたらします」という看板。
写真を写真に撮ってきました。このアウシュビッツの施設には、日本人のガイドさんがいて、
その方が数少ない公認ガイドさんみたいです。その方にできればお話を聞きたかったのですが、
時間も合わなくて、お会いできなかったです。
これが強制収容所行き電車
ここアウシュビッツでは、各国の部屋があり、つまり、イタリアの大戦中のユダヤ人の様子や
ポーランドの彼らの動き、ハンガリーの・・・というように。
割合から見ると、もちろんユダヤの人々はパレスチナ地方に多いのですが、
人数を見ると、ポーランドとウクライナが非常に多いことがわかります。

これは、強制収容所のあった土地を示した図
大きな文字で書かれているところが、殺された人数が多い土地
この部屋の映像が酷くて、初めて見る映像ばかりだったのでじっくり見てきました。
餓死の様子

何も与えられず、死を待つのみ・・・
この映像を見ていて、ルワンダの様子を思い浮かべてました。
人間が、一人の人間が、こうも簡単に、雑に扱われる様子を見ていると、ただ単に
「こんな時代があったんだ・・・」では終わらない感情が湧いてきます。

ナチスドイツには、「人種衛生研究室(Racial Hygene Labolatory)」という嫌な名前の団体があったみたい。ユダヤ人という人種が生まれてこないように、遺伝子操作をしようという試みであったみたいだ。人が、人種で判断される。これは、本当に、昔あった話ではないし、これからも起こりうることだなと思っていたとき・・・この言葉がありました。

たぶん、ユダヤ教の司祭の言葉だけど、
「起きたことだからこそ、また起こりうる。これが私たちが今言える確実な真実だ。」と。

だから、私たちは歴史を大いに学ばなければならない。
そして、二度と起こらないように、あらゆる人々に優しくなっていかなければならない。
最近、近隣諸国との摩擦が激しいなと感じています。(今になって始まったことではないけれど)

2014年9月24日水曜日

37カ国目入国、ポーランドのクラクフ

本当は、ポーランドも時間かけてワルシャワも行きたかったけど、なにせEU圏内にいる時間が
限られているため、すっとばしてクラクフに来た。
EU内にいられる時間は残り20日くらい。

ベルリンからバスで22時に出発、red eye(最近覚えた)で朝6時ワルシャワ着、
その後乗り継いで、南のほうのクラクフに昼の13時着。

ホステルがなんと5ユーロ(ズロチという通貨単位を使ってますが、予約はユーロでした)という
激安なホステル、しかし雰囲気が非常によく、何泊もしたいくらいだった。
男性も女性もなんか仲が良く、また長期で泊まっている人もいたくらいだから、不思議。

今日はクラクフの街並みを載せて終わりにしまーす。
日本漫画館という施設があり、館内は閑散としてたけど、
日本文化が散りばめられていた。
着物、書、浮世絵なんかが展示されていたが、私が気に入ったのが
現代の日本を映像におさめたビデオクリップ
懐かしい風景がたくさんでてきてました。
「ああ、日本だなあ」って。



公園内を散歩している人が多かった

街の観光の中心であろうお城

同じ高さの違った色の家々がびっしりと建ち並ぶ旧市街
色が綺麗だってのに白黒で写したほうがいいかなと思い、白黒(笑)


街の中心の広場

さて、次回は、アウシュビッツ強制収容所のことを書きます。

2014年9月23日火曜日

パーダーボルンから新聞の記事が届きました!

なんと、私がドイツのパーダーボルンに滞在した時の様子が、新聞の記事になりました!
もちろん、新聞の記事を担当しているのは、友人のハイコーなんだけどね。
じゃあ、記事の文面を訳しますね。いきなりタイトルが難しいですが・・・笑

「一人の世界旅行者が、流れてここへ。」
街に流れるパーダー川は、人々を魅了して、近隣からも、また、遠くからも、
ここ東ヴェストファーレン州にいざないます。
遠くから来た特別な訪問者が、パーダー友好都市クラブの会長であるディートリッヒ・ホーネルボグ氏と顔を合わせることができました。
日本から来た伊藤大輔氏です。彼は今回、世界旅行をしています。
彼のドイツ訪問の経緯はというと、ケルンから始まり、いま美しきパーダー川の囲まれたこの地、パーダーボルンへと移ってきました。
この日本人は偶然ここに来たのではなくて、何年も前にこの街に住む、パーダー友好都市の会の会員であるハイコー・アペルバウムに会ったからなのです。
[Dass…からの一文は全く訳せず・・・]、
東京から来たドイツ語を学んだ世界一周旅行者の彼はこう力強く言ってました。
「こんなに、街の真ん中に小川や泉がたくさんある街は見たことないです。とても魅力的ですよ。」

一応訳しましたが、意訳です。
もっとがっつり訳せる人がいたら連絡ください、そうすると私も嬉しいです。
改めて、本当にありがたい出会いだったなあと感じたし、
少し、パーダーボルン市に住む人々に、日本からも来てるんだよということを伝えられたかな。

2014年9月20日土曜日

ベルリンで訪れたかったところ ユダヤ博物館&ザクセンハウゼン強制収容所

「ユダヤ博物館」

正直、ユダヤ人の歴史についてあまりよく知らない。
21世紀の現代でさえ、大きな世界の課題となっている問題について、知りたくなった。
ここらでちょっと勉強しようと思い、ベルリンにあるユダヤ博物館に行ってみた。

この博物館は、人々にユダヤ人の歴史とユダヤ人の風俗習慣を理解してもらおう、
という意図を感じたな。
しかし、ここにはビデオギャラリーというか学習室というようなかんじの部屋があるんだけど、
それは本当にわかりやすかった。

「ユダヤ人の離散」というのはよく言われることだけど、それはローマ帝国が拡大していた時代に、
エルサレムという土地が支配され、ユダヤ人はヨーロッパ中心に各地に散ることになったそうだ。
そして、ポーランドやウクライナ、ハンガリー、そしてパレスチナに多く居住することになったそうだ。

ユダヤ教は、生活様式(結婚、食べ物、服装、儀式等)、民族(血縁)を大切に考える。
金曜日の夜から土曜日の夜までは働かないという基本的なことも、この館で初めて知った。
香港、上海に移住していたユダヤ人が多い中、
1941年に日本が戦争に参戦、1943年には香港を支配し、
ゲットーと呼ばれる収容所にユダヤ人を送還
 ヒトラーは、ドイツ民族が優秀であり、その他の有色人種やユダヤ人は劣等民族、
ユダヤ人こそ根絶やしにしようではないか、という考えを持ち、それを実行していった人物。
ユダヤ人に生まれたが故に、いやがおうにも殺される運命・・・
これは以前の日本、いや今の日本にも関係してくることなのでは?と思ってます。
いま、日本でも差別がありますよね。みなさん、ご存知ですか?
日本の差別は世界でも結構有名なのですよ。
今後、こういうヒトラーのような考えが日本中に広まってこないか私は心配でたまりません。(まずは自分が気を付けないと。)
館内はがらんとしていて、
これには理由があるみたい
 館内にはところどころ空間があり、作成者の意図を読んでみたら、
「ドイツ社会におけるユダヤ人の喪失」というものが含まれているようだ。

 なんだかよくわからなかった空間。鉛の顔がたくさん。
「自由とはなんだろう」の木
 この館では、「平等とは何だろう」ということをとても考えさせられました。
私、じつはこの「平等とは何か」について、旅中ずーーーーーーっと考えていることなんです。
日本帰国時に、差別について話した人もいるかと思いますが・・・
いちじくです。

「ザクセンハウゼン強制収容所」

アウシュビッツ(ポーランド)にも行ってきましたので、次回書きます。
今回はドイツ国内の強制収容所。
ベルリンから電車で1時間弱、S1(S-Bahn)というラインの北側終着駅から徒歩20分、
かつて強制収容施設があった。
ここには、ドイツ国内にいたユダヤ人を収容し、過酷な労働をさせ、多くの人を死に至らせた施設。
労働は自由につながる

当時の施設のままの部分もあった

ドミトリー的なベット(笑)つい、自分がよく泊まる安宿を思い浮かべてしまった

これが着せられていた服だそうですが、
生地が薄く、ドイツ北部の冬の寒さに耐えうるものではないような気がしました

広大な敷地にバラックがかつてたくさん並んでいた

これが遺体焼却施設
写真を見ましたが、その遺体数は目も当てられなかったです

囚人(と呼ばれていた人たち)が逃げ出さないように鉄条網
 ポーランドを出国し、すでにチェコに入っているのですが、
ポーランドのアウシュビッツ強制収容所は、本当に、まじで、考えさせられたし、
戦争というものを直視させられた。
これにより、旅の方向が転換するくらい衝撃を受けたので、次回(も)たくさん書きますね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。