2014年10月2日木曜日

ローマ遺跡、ちょっとマニアック編

いままで、モロッコ、スペイン、ドイツ、そしてイングランドと、ローマ帝国の跡を見てきました。
特に、ハドリアヌス帝の跡が多く見られたのですが、ここイタリア国内では、ローマ建国紀元前753年から崩壊と言われている紀元後8世紀までの「跡」まで、思う存分見ることができるので、
たまりまてん・・・。

<アラ・パチス>
初代皇帝といわれているアウグストゥスが、平和の祭壇を作るよう命じました。
この祭壇が復元され、移動され、今の展示場所になりました。
この側面には、アウグストゥスの家系一族が彫ってあったり、
当時彼の軍事的側面を支えていたアグリッパなどが彫ってあったり、ぐっと見入ってしまう彫刻。
左側が欠けているのが、アウグストゥスと言われている


<トライアヌスの戦勝記念碑>
紀元100年前後くらいに、トライアヌス帝がダキア地方を攻め入りました。
今のルーマニア、ブルガリア北部あたりですが、そのときの戦地に赴く場面から、
前線基地を作り、攻城する場面と一部始終を、「勝者の目線」で掘られています。
これがどかんと、つったっている姿を見たときは興奮しました。



<フォロロマーノ内、付近>
元老院です。この元老院で紀元前500年頃から議論がなされ、ユリウス・カエサルが殺害されて…
こちらは紀元300年より後に作られたコンスタンティヌスの凱旋門。
当時、皇帝位が分裂していて、正帝と副帝がいたんですが、副帝であったコンスタンティヌスが
正帝を倒してことを記念し、建てたものだという。
ちなみに、1960年に行われたローマオリンピックのマラソン競技ゴールでもある。
凱旋門のいたるところにその戦いの様子が刻まれていた。

Senatus Populusque Romanus
略語ですが、意味は「元老院ならびに、ローマ市民諸君」というもの。
いまは、水道のマンホールというのでしょうか、必ずどのマンホールにも刻まれています。
現代においても、ローマ帝国の印がローマ市内では使われているというところが
なんとも言えないかんじです。
水道や道路に限らず、公共施設の充実を図ることこそが
人間の、人間らしい生活を送るための不可欠な要素」と考えていた当時のローマの指導者層の考えは、素晴らしいものだと今も変わらずいうことができると思います。
また、その考えを、後々の皇帝が引き継いでいったことが、人間の業だなと思うのです。
良いことは継続していかないとね。

<カラカラ帝の大浴場>
 これもまた、人々が人間らしい生活を送るために必要なものという点では、私もそうだと思ってます。浴場です。
 こんなに大きい温泉施設はどこいってもありませんよ・・・
 ここはプール跡。目をつぶると、想像できるから楽しい。

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