2014年10月20日月曜日

滞在期間は4日だったが、興味深かったボスニア・ヘルツェゴビナ<首都サラエボ>

空路でチュニジア→フランスのパリ→イタリアのローマ→クロアチアのドゥブロブニクに。
パリで一旦入国、観光しようと思っていた矢先、飛行機の時間が変更になり、
ちっとも空港から出られず。
なぜこのルートをとったかというと、チュニジアから東欧に飛ぶ安いチケットがなかったんです。
ですので、一旦西ヨーロッパを経由してということにしました。

そしてクロアチアのドゥブロブニクに一泊後、その地の観光は友人との合流後にするとして、
それまで周辺の国を周ることにしました。

まずは、ボスニア・ヘルツェゴビナ
恥ずかしい話ですが、東欧(と括って書いてますが、もしかしたら正しくない呼び名かもしれない?)の国々はどんな国々で構成されていて、
どこに位置しているのかがあまり分かっていませんでした。
ですから、自分の中で理解したいというのがここらへんを歩く第一の理由。

そして、自分の記憶に新しい事件の中で印象的な、ユーゴスラビアの解体。
その後起きた各地の民族(?)紛争、大量の犠牲者…
その舞台となった街って、どんな様子なのって知りたくて。

泊まったのはユースホステル(8ユーロ)だったんだけど、
近くの丘の上からは、集団埋葬された墓場。


ここには、サラエボオリンピックの補助会場があったそうですが、
その後解体され墓場になったという。
墓の一つ一つを見てみると、亡くなった年が1992年から1996年ぐらいに集中している。
ルワンダで見たときもぞくっとしたけど、(ちなみにルワンダは1994年)、
大量の墓石に、同じ年が刻まれている場面を見ると、やはりぞくっとする。
街の建物の中には、銃痕が残っているものも少なくない。


そして、あれを見忘れた、サラエボのバラと言われている、爆撃の跡に埋め込まれた蝋。

そしてサラエボオリンピック会場も見るべきだったかなとちょっと後悔してる。

1914年には、第一次大戦勃発のきっかけにもなったサラエボ事件がまさにこの街で起きている。
日本人には(?)どうしても第二次大戦よりは、関係が薄い戦争であるからか、
博物館があって助かった…、たった1フロアだけの博物館だけど。
この橋の向こうにある角の建物の前で、ハプスブルグの皇太子が
一青年に撃たれたのだそうです

当時使われた凶器

街の中心に川が流れるサラエボ市内


ボスニアコーヒーってのもあって、トルココーヒーと似てるんだけど、粉が最後に残るのね、口に。
それが苦手だけど、味はまあ普通の濃いコーヒーだった。
それと、ブレックという食べ物にはまった!
ナン生地の柔らかいパンに、小さいハンバーグと細切れ玉ねぎが入ってる。
これ食べると、とにかく「あ~、夕飯いらね」となるくらい、重い。
でも美味しいから病みつきになる。
1マルク、だいたい70円

店によるけど、だいたい半分のものは3.5~4マルクで食べられた
日本円だと250円くらい

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